1560年(永禄3年)5月19日は、日本の歴史の転機となる大きな合戦「桶狭間の戦い」が起きた日です。当時27歳と若かった織田信長は、4000人という少ない兵を率いて2万5000人の大軍を引き連れた今川義元を討ち取りました。この戦果は信長が天下統一することができたきっかけとも言われています。
この合戦が行われたとされるのが、愛知県名古屋市緑区にある桶狭間エリア。この記事を通して、住宅街の中にひっそりと息づく桶狭間の戦いの跡を巡ってみましょう。
今川義元の墓碑がある「桶狭間古戦場公園」
名鉄名古屋本線有松駅からバスで移動すること約7分。桶狭間の戦いから450年後の2010年に公園として整備された「桶狭間古戦場公園」を訪れました。
歴史的には「田楽坪(でんがくつぼ)」という名将で呼ばれることが多いこの公園には合戦の主役である織田信長と今川義元の銅像が鎮座しており、ここがただの公園ではないことを感じさせてくれます。
公園の正面入り口を入ってすぐの場所に、義元の墓碑「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」があります。この墓石は1953年に偶然発見されたもので、当時の村人が負けた武将を供養したことが明るみにならないように、墓石を埋めてひっそりと供養したものと考えられています。
駿公墓碣のそばには義元が馬を繋いでいたという枯れたねずの木もあります。この木に触れると熱病にかかるという言い伝えも残っているようです。
今川軍の本陣があったと言われている「おけはざま山」
公園を出て住宅地を抜けていくと、アパートの前に石碑が建てられていました。
今川軍は、おけはざま山の中腹部に本陣を構えていたと考えられています。今でこそ宅地が並んでいますが、1935年頃は崖で、当時の地形の中では防御性に優れていたようです。
桶狭間の戦いの時、現地はひどい豪雨だったと言われています。高地に着陣していた今川軍は、落雷の被害を受け大混乱に陥りました。感電を恐れ武器を捨て逃走していた今川軍を見た信長は、雨が止むや一斉に進軍。織田軍の毛利新介は、義元を田楽坪まで追い詰め首を取りました。
今川家ゆかりの寺「長福寺」
新介は義元の首を持って長福寺へと向かいました。新介が取った首が本当に義元のものであるか、信長がここで検証したと言われています。長福寺は1538年に創建された寺院で、以前から今川家と関係が深く、桶狭間の戦い以前から今川家ゆかりの品が寄贈されていました。
長福寺の境内には一度も水が枯れたことがないという「弁天池」があります。ここは殺生が禁じられた池ですが、桶狭間の戦いでついた日本刀の血がここで洗われたとされ、江戸時代には「血刀濯ぎの池」と呼ばれるようになりました。この池はいつでも拝観可能です。
桶狭間観光をするなら観光案内所に寄るのがオススメ
桶狭間エリアは現在は宅地化されている地域も多く、どこが歴史スポットなのか分かりにくい部分があります。そのため、事前に観光案内所でリーフレットを入手していくのがオススメです。観光案内所は2019年に開設された新しい施設で、桶狭間の戦いに関するパネル展示やムービー上映、関連書籍の販売なども行っています。
また、毎月第2日曜日には観光案内所のスタッフによる史跡めぐりイベントも実施されており、無料で桶狭間の戦いについて学ぶことができます。
つわものどもが夢の跡。歴史を感じに桶狭間に行ってみよう
桶狭間古戦場公園では、毎年織田・今川両軍の戦没者の慰霊祭として「桶狭間古戦場まつり」が行われています。夜に行われる「万灯会(まんとうえ)」では、暗くなった大池に約3500本のロウソクが灯ります。幻想的な光景を見に、毎年遠方からも歴史ファンが訪れるイベントです。
日本の歴史の転換点となった桶狭間の戦い。その合戦の跡が色濃く残る桶狭間エリアに、皆さんもぜひ訪れてみてください。
桶狭間古戦場公園へのアクセス
桶狭間古戦場公園
所在地:愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001
電車でのアクセス:
名鉄「名古屋」駅から、名鉄名古屋本線「有松」駅で下車。名古屋市バスにて「幕山(桶狭間古戦場公園)」バス停下車、徒歩約2分
車でのアクセス:
名古屋第二環状自動車道「有松インター」より約5分
料金:無料
営業日・時間:随時
駐車場:桶狭間古戦場観光案内所をご利用ください。