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ライフ  |    2024.01.15

輪島へ帰省中に地震で被災した方の体験談|令和6年能登半島地震

この度の令和6年能登半島地震において、
被害に遭われた地域の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
早く日常が戻ってきてくれることを祈っております。

先日、自然豊かで産業に活気のある輪島のお店を紹介したばかりで、この記事を執筆するのはとても心が痛みました。でも、皆さんに被災地の真実を伝えることを目的に、金沢在住のライターとして書くことにしました。

協力してくださったのは、金沢から輪島の実家に帰省(1/30〜1/3)していた家族(ご夫婦+中学生と小学生の娘さん2人)です。辛いはずの記憶を「少しでも誰かの役にたちますように」と、地震当時の輪島の様子を語ってくれました。

地震発生当時の様子

地震が発生した元旦の夕方からの様子を聞きました。

地震発生当時、どのように過ごしていましたか?

実家の居間のこたつでおやつを食べていました。一緒にいたのは娘2人と姉、母の4人です。夫は外出していて留守でした。

地震のときの家の様子を聞かせてください。

地震の時、机の下に隠れました。下の娘はひどい揺れで飛ばされたほどです。家の扉はほとんど倒れました。窓も割れ、壁が崩れ落ち、食器棚は倒れて半分になっていました。足の踏み場もない状態で、2階の階段も外れていました。

外の様子を教えてください。

家が崩れ落ちると思い、すぐに外に出ました。あちこちの家からガラスの割れる音や物が倒れる音が聞こえていました。家の前の道路は割れ、電柱が傾いていました。電線も垂れ下がっていました。目の前の家も傾いていたり、半壊状態の家ばかりでした。

揺れが収まったあとの行動を教えてください。

娘がスマートフォンを持っていたので離れて行動していた夫にすぐに電話をしました。私も余震がありましたが、スマートフォンが地震で手から飛んでいってしまったので急いで中に取りに入りました。すぐに津波の警報と、地震の警報の両方が鳴り、津波はすぐにくると思い夫と連絡を取り合いながら市役所に逃げました。

最初は津波がくると思い、近くに手に持つことのできた上着と毛布1枚だけ持って向かいました。

当日1/1の避難先(輪島市役所)の様子

親子はすぐに市役所へ避難しましたが、他の住民の人は荷物をまとめたりしていたようです。

避難してすぐの避難先の様子を教えてください。

走って市役所に着いたのが15分後ぐらいです。市役所に来ている人は10人ほどで、職員の方もまだいない様子でした。そこから10分経たないくらいで市役所に入ることができました。津波の心配があるためすぐに屋上に上がりました。

屋上から見た町の様子を教えてください。

屋上から町を見ようとしましたが、余震が大きすぎて子供達も屋上のその場から動けず私も子供達を抱きしめていたのであまり見ることができませんでした。

夫が「川に大きな波を打つ様子が見える」と言っていました。地震が発生してから30分ぐらい後です。私達がみたときはもう津波の第一波ではなかったのかもしれません。

避難所はどのような感じでしたか?

早めに着いたので、缶パン、水、お茶をもらいましたが、トイレの水が流れないのもあり、大人も子供達も少しだけしか食べられなかったように思います。

市役所から毛布を2枚もらいました。他の方にも必要なので1人1枚もらうのは難しい状況でした。子供達は椅子で眠ることが難しく、地面に毛布を敷いて寝れるようにしました。

エアコンがついていましたが、外にいる人のために扉が開いていて寒く、上着を着て毛布を上から掛けて朝まで過ごしました。大人は座ったまま寝ました。
私達は早めに市役所に行ったので、会議室内で寝れましたが、後から来た方は廊下、階段で寝ていたのでとても寒かったと思います。

トイレは最初は市役所から決まりがなかったので、流せない状態でそのままみんながしていくような感じでした。そのあと、紙だけは別に捨てるようになりました。

何度も余震がありましたが、ご家族の様子はいかがでしたか?

1日目の余震は回数も多く、震度5程度の余震も何度もあったため、市役所の中にいても恐怖に震えました。余震のたびに緊張し、目が覚めて、安眠できずに過ごしました。
大人も子供達も揺れるたびに不安な表情になり、下の娘は怖くて涙を流していました。

何人と連絡をとりましたか?

10人ほどLINEで連絡をしました。私のスマホは、つながりが良かったのですが、なかなかつながらない友人もいました。

避難所には何人ぐらい身を寄せていましたか?

300~400人はいたのではないかと思います。帰省してきていた家族と思われる人や赤ちゃんもいました。

翌日1/2の避難先(輪島市役所)の様子

余震に警戒しながらの避難先の様子を話してくれました。

翌朝の避難先の様子を聞かせてください。

翌日の朝は、みんなほとんど眠れていない様子でした。朝になったら荷物を取りに行ったり、食料を探しにいったりと、動ける大人達は動いていました。
高齢の方は1日目で疲れてしまって動けていない方もいました。

翌朝はどうしましたか?

次の日の朝に家に戻り、毛布を3枚ほどと、貴重品、冷蔵庫にあった食べ物(みかんやバナナ、チーズ、ヨーグルトやお菓子など)、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、生理用品、子供達の学用品など、必要なものだけ避難所に運びました。

地震を経験して感じたこと伝えたいこと

経験した方の思ったこと、感じたことを聞くことができました。

筆者が1/1に地震を体験して、1/3に金沢に帰るまでに感じたこと

地震が起きて一番は子供達が心配でした。

今も思い出すだけで怖くなる自分がいるのに、子供達はこの気持ちを抱えて日常に戻ることができるのか気がかりでした。避難所では姉妹2人で遊ぶ姿もありましたが、地震が起きたときの子供達の聞いたこともない悲鳴を忘れることができません。

1日目は特に避難所にいると情報がなかなか入ってこないので、とても不安でした。ただひたすら、少しでもよい避難所での生活を送ること、子供と家族を安全なところに連れていくことを考えていました。

翌日食料を探して外に出たとき、コンビニエンスストアで泥棒に入られたと聞き、悲しい気持ちになりました。そのほかでも誰もいないお店などに入っていく人を見かけました。

食べ物をもらうのも動ける人はいいのですが、動けない高齢者の方は大変な環境だったように思います。もっと手伝える部分があったのではないかと避難所にいるときも考えていました。でも、自分に余裕がありませんでした。

金沢に戻るときに、県外の車や輪島に向かっていく車に沢山すれ違いました。通れる道はないのに消防、自衛隊、緊急車両の邪魔になっていました。あの時間に救える命があり、被害を少しても防げたのかもしれないと思うとなんとも言えない気持ちになりました。

正しい報道がされていたのか私にはわかりませんが、考えて正しい行動をすることがまずは大事だと思いました。

娘達にも少し聞きましたが、思い出したくないようで暗くなったので私が思ったことをお伝えします。

石川県発表:令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について

令和6年(2024年)1月に発生した能登地方を震源とする地震により被災された方々への支援を強化するため、石川県は日本赤十字社石川県支部および石川県共同募金会との連携により、災害義援金の受付を開始しました。
義援金の窓口、振込先などの詳細につきましては、石川県公式ホームページをご確認ください。

石川県公式サイト:令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について:https://www.pref.ishikawa.lg.jp/suitou/gienkinr0601.html

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この記事を書いた人

松永 つむじ

プロライターチーム「TSUMUJI Writing Studio」代表。車好きの女性Webライター&エディター|愛車はスイフトスポーツMT|Lancers 認定ランサー|元予備校講師|フリーランス| 執筆ジャンル:車、旅行、英語、教育、学習、生活、恋愛、家庭など| 女性の自立応援のひとつとして、「ライター」という働き方を紹介し、育成する活動も行っています。

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