
札幌市の中心部から地下鉄で15分ほど。南区の住宅街・澄川駅から歩いてすぐのマンションの一室にエステサロン「リアン」があります。
オーナーの菅 弘美(すが ひろみ)さんは、元・バイアスロンの選手。冬季オリンピックの長野とソルトレークシティ、2大会に出場した経歴をもつ女性です。
——と書くと、なんだか華々しい経歴の持ち主に見えるかもしれません。ですが、本人はとても明るく気さく。
「学校を卒業して自衛隊に入隊。社会人経験もなくて毎日の地下鉄で通勤とか、今さらできないなって思ってたんですよ」
そんな弘美さんが札幌に根をおろし、エステサロンを開くまでの道のりは、生まれ育った富良野市麓郷(ろくごう)という土地から始まります。
生まれ育ったのは「北の国から」のロケ地・富良野市麓郷

弘美さんの実家は、富良野市麓郷で農業を営んでいました。麓郷といえば、ドラマ『北の国から』の舞台となった土地。
ロケは生活の一部で、富良野塾の塾生が実家のバイトに来ることもあったそうです。
実家に富良野塾の塾生が出入りしていた子ども時代
富良野塾は、脚本家・倉本聰さんが1984年に開設した俳優と脚本家を育てる養成所です(2010年に閉塾)。塾生たちは富良野市で暮らし、農作業をしながら演技や脚本を学んでいたといいます。
弘美さんの実家の農家にも、バイト先として塾生が出入りしていたそうです。畑作業を通じて地元の人たちと関わりながら、塾生たちは演劇の世界を目指していました。まさに「生活と創作が地続き」の環境が、麓郷にはあったのです。
自転車でロケ見物|卒業式シーンには自分もエキストラ出演
「隣の畑でロケがあるって聞いたら、自転車で見に行ってましたね。『今日ここで撮影ある』って情報が回ってきて」
中学校の卒業式シーンでは、弘美さん自身もエキストラとして出演。校長先生役は、なんと本物の校長先生だったそうです。
「主役の五郎さんも普通に歩いてましたからね。地元民は振り向かない、もう馴染んでて(笑)」
町ぐるみでドラマに関わり、リアルとフィクションが地続きだった麓郷。そんな環境で、弘美さんは少女時代を過ごしました。
「やれ」と言われたらやる性格|スキー少女がインターハイへ

ドラマのロケ見物と並行して、弘美さんが幼い頃から親しんでいたのがスキーでした。
ただ、多くの人がイメージする「ゲレンデを滑り降りるスキー」とは、少し違う種類のようです。
1学年10人の小規模校|強制だったクロカンスキー
「実家の近くにスキー場があったら、私はアルペンスキーをやっていたと思うんですよ。でも麓郷は畑が広がる田舎なんで、必然的に学校のスキー授業もクロカン(クロスカントリースキー)なんですよ」
札幌生まれ札幌育ちの筆者は、このセリフに驚きを隠せませんでした。スキーは「斜面を滑るもの、授業も同じ」と思っていたため、ここで初めて「違う種類のスキー授業」の存在を知ります。
アルペンスキーは斜面を滑り降りる競技、クロカンは雪原の平地や坂を自力で進む競技。同じ「スキー」でも、道具も走り方もまったく別物です。
弘美さんが生まれ育った麓郷は平地の畑地帯。だからスキー授業も、クロスカントリー一択だったそうです。
スキー少年団からいつの間にかインターハイへ
弘美さんがスキー少年団に入ったのは小学校3年生のとき。指導してくれたのは、卒業後に地元に残った先輩たちでした。
「先輩の言ったことに反抗するタイプじゃなくて、『やれ』って言われたらやる性格だったんで(笑)」
素直さと好奇心から先輩の指導をみるみる自分の中に落とし込み、走り方がわかってきたころ、大会で6位入賞。「なんか、頑張ってみよう」と気持ちに火がついたそうです。
競技を続けているうち、道内のスキー強豪校から声がかかるようになりますが、家族と離れて暮らす生活は気が進まず、地元の高校に進学しました。
「スキー部に入ったら、麓郷の先輩しかいないんですよ。女子の仲間じゃなくて、先輩の男子選手について練習してました」
専門の指導者もいない中、先輩の背中を追いかけて自己流で走り込みを重ねた高校時代。気づけば、インターハイに出場するまでになっていました。
合宿で知った「ちゃんとした指導」の差
当時、女性のスキー競技人口は少なく、指導者もほぼ男性。同性の仲間やお手本になる先輩が極端に少ない環境で、弘美さんは競技を続けていました。
そんな中、北海道スキー連盟の合宿に参加した際、強豪校の指導者から直接教わる機会が訪れます。
「『あ、やっぱりちゃんとした指導を受けたらすごいんだな』って思ったんですよね」
自己流で走り込んできた自分と、競技の理論に基づいた指導を受けてきた選手たちとの差。この気づきが、次の進路を考える大きなきっかけになっていきました。
「かっこいい、私もやりたい」|バイアスロンとの出会い

長野オリンピック招致の話題で盛り上がっていた、弘美さんの高校時代。「オリンピックに出たい」という大きな夢ができました。
さらに、たまたま目にした女性バイアスロン選手の取材記事が、この競技の存在を知るきっかけになったといいます。
女性バイアスロン選手を知った高校時代
クロカンを続けていた高校時代の弘美さんは、たまたま目にした取材記事で女性バイアスロン選手の存在を知ります。
「『かっこいい、私もやりたい』って思ったんですよね」
バイアスロンは、クロカンとライフル射撃を組み合わせた冬季競技です。雪上を全力で滑ってはコースを離れて射撃場に入り、5発の弾で的を撃つ。そして、またコースに戻る。
心拍数を上げながらも、射撃では集中力と精密さが求められる、「動」と「静」が共存する種目です。
クロカン一筋で来た弘美さんの中に、新しい目標が芽生えた瞬間でした。
オリンピック選手を目指して自衛隊へ
「バイアスロンでオリンピックに出たい」と目標を立てたものの、それは簡単な道ではありませんでした。
バイアスロンは銃を扱う競技です。そのため日本では銃刀法の規制により、競技ができる環境が極めて限定されていました。当時の日本代表選手は、ほぼ全員が自衛隊員という状況だったのです。
「自衛隊に来たら、うちの部隊でスキーできるよ」
そう声をかけられた弘美さん。大学進学の選択肢もありましたが、バイアスロンに挑戦できる自衛隊への入隊を決意します。
ただし、入隊後の最初の6ヶ月は自衛官としての基礎教育を受ける必要がありました。それでも「オリンピックに出たい」「バイアスロンに打ち込みたい」という強い思いが、入隊の迷いを払拭したのです。
夢だった舞台!2度のオリンピック出場へ

自衛隊に入隊した弘美さんは、バイアスロンの選手として競技に打ち込む日々を送ります。高校時代に憧れた女性選手とも、先輩・後輩として約2年間を共に過ごすことができました。
そして、1998年の長野、2002年のソルトレークシティと、夢だったオリンピックに2度出場。日本女子バイアスロンの代表として、世界の舞台に立ちました。
「走っている途中の順位があまり高くなくても、『ゴールするまではわからないよね』みたいな」
バイアスロンでは射撃で的を外すと、距離(ペナルティコース)や時間(タイム加算)のペナルティが課せられます。スキーで先頭を走っていても、射撃のミスで一気に順位が入れ替わることも珍しくないとか。最後の一発まで、結果はわからないスリルと戦略性こそが、この競技ならではの面白さなのです。
現役時代には気づかなかった「肌を守る」ことの大切さ

バイアスロン選手として競技に打ち込んでいた現役時代、弘美さんが意識していたのは「練習してなんぼ」という価値観でした。
肌のケアは、正直なところ後回し。けれどそのツケは、引退後にゆっくりと、けれど確実に姿を現すことになります。
「練習してなんぼ」現役時代の過酷な肌環境
日焼けといえば夏のイメージが強くありますが、冬は冬で雪面の照り返しが強烈です。雪の反射率は約80%に及び、夏の日差しよりも強い紫外線を浴び続けることになります。
「夏は夏で、めちゃくちゃ汗かく練習するじゃないですか。ファンデーションとかつけても落ちるし、日焼け止めこまめに塗らなきゃいけないし。そんなこともしてられないし」
冬は雪焼けで真っ黒。夏は汗と日焼けで真っ黒。一年を通して肌は直射日光にさらされ、紫外線のダメージが蓄積されていきました。
「でも私たちの時代は、練習してなんぼの時代なんで」
今でこそ、競技中もメイクを楽しむアスリートが増えました。けれど当時は、メイクもスキンケアも「やっている暇があったら練習」という空気感。気になりつつも、ケアせず放置していました。
引退→結婚・出産|シミが目立つように
ソルトレークシティ大会を終えた弘美さんは、現役を引退。自衛隊時代に知り合い、同じくオリンピック選手だったご主人と結婚し、ふたりのお子さんを授かります。
ひとり目を出産したあと、ご自身の変化に気付きました。
「ここ(こめかみ)にシミが出てきたんですよね。ヤバいって思って」
ママ友のアドバイスでレーザー治療を受けてシミはきれいに取れましたが、4年後にふたり目を出産したころ、また同じ場所にシミが現れたのです。
一度取ったはずのシミが、また同じ場所に現れる。その後も自己流でケアを試みるも、まったく効果がありません。
「なぜ?」
弘美さんの中に、肌への関心が少しずつ芽生え始めていました。
自己流では解決せず|肌の仕組みを勉強し手に職を
子育てがひと段落ついたころ、夏のゴルフ場でキャディの仕事を始めた弘美さん。相変わらず紫外線とは切っても切れない生活です。
そんな中、ひょんなきっかけから「ただ塗るだけ」と思っていた化粧品にもそれぞれ役割があることを知ります。
「それまで自己流で美顔器を使ったり、ピーリング(角質はがし)をやっていたんですけど『あ、自分、間違ってたな』って。使い方って、すごく大事なんだなって」
知識を得るほど見えてきた肌の仕組みや、時間の経過とともにじわじわ襲ってくるシミやシワの原因になる紫外線ダメージ。現役時代に何もケアしなかったツケが、今のシミとなって出てきたのです。
正しいケアを学び、自分で実践。何をしても消えなかったシミが徐々に目立たなくなりました。
自身の経験を通して同じように悩む人の力になりたい。同じ環境のアスリートたちにも、紫外線ケアの大切さを伝えたい。そう覚悟を決めた瞬間でした。
弘美さんが描く「アスリートたちの未来」

現在は南区澄川にあるマンションの一室でエステサロンを営む弘美さん。お客さま一人ひとりの肌と向き合う日々を送っています。
そんな中、弘美さんには密かに描いている「未来の夢」があります。
「汗にも日焼けにも強い、アスリートが競技中でも使える化粧品。そういうのをプロデュースしてみたいんですよね」
スポーツ大会での日焼け止め指導、ランニングイベントでのブース出展、競技者向けの化粧品開発。弘美さんの頭の中には、アイデアがたくさん浮かんでいるそうです。
しかも、弘美さんの現役時代と今では気候が違います。北海道でも30度を超える日が珍しくなくなり、紫外線量も年々強くなっている時代。今はシミやシワで済んでいるダメージも、この先どうなるかわかりません。屋外で練習を重ねるアスリートたちにとって、肌のケアは「後回し」で済む話ではなくなってきているのかもしれません。
まとめ

「元オリンピック選手」という経歴は、とても特別に見えます。けれど弘美さんのサロンは、住宅街のマンションの一室。お客さまはご近所の方が中心で、マルシェやイベントにも顔を出しながら、地域に根ざした活動を続けています。
現役時代に得た経験、そして引退後に学んだ肌のケア。両方を兼ね備えた弘美さんだからこそできる発信を、これからは地域のスポーツイベントや子どもたちの世代にも広げていきたい。そんな想いを持っているそうです。
アスリートも、地域の人も、世代や性別を超えて肌を守る。弘美さんが描く未来には、競技者だけでなく、この街で暮らすすべての人が含まれているのかもしれません。
エステティックサロン「リアン」
住所:札幌市南区澄川3条2丁目6-13 ブローニュ澄川 306号室
アクセス:札幌市営地下鉄南北線「澄川」駅から徒歩3分
予約方法:公式LINEよりお願いします。
Instagram:https://www.instagram.com/hiro_naris/



