伊吹山を源流とする姉川。元亀元年(1570年)この川の両岸で壮絶な合戦が繰り広げられました。それが姉川の合戦です。
この戦いは、同盟関係にあった浅井長政と織田信長との戦いでした。浅井長政の妻であるお市の方は織田信長の妹(従兄弟という説もある)。つまり、浅井長政と織田信長は義兄弟の関係です。
兄弟は他人の始まりとはいうものの、姉川の合戦は身内同士で戦ったことになります。親戚関係にあっても馬の合わない人がいるのも確かです。しかし、どうして織田信長と浅井長政は争わなければならなかったのでしょうか。
今回は姉川の合戦場で当時の状況を想像してみました。
織田信長と浅井長政の確執とは?
ある日、長政君は信長君から
「わしと同盟を結ぼうや!悪いようにはせんから、安心してよ」
と誘われます。
当時、美濃国を攻めあぐねていた信長君にとって、長政君は都合の良い人材だったようです。
条件付きの同盟が成立
しかし、長政君の周りの人たちは
「信長君と同盟なんて考えられへん!絶対やめた方がいいわ」
と大反対。なぜなら、長政君の家は越前(福井県)の朝倉君と仲が良く、朝倉君と信長君は超絶不仲だったからです。
じつは、長政君の家は過去に朝倉君の家から援助を受けていました。ですから、朝倉君に恩を感じている長政君の親戚一同は
「あかんて、長政君。信長君と同盟なんか組んだら、朝倉君を裏切ることになるやん」
と言うのです。
そこで長政君は考えました。
「ほな、信長君が朝倉君の方にちょっかい出さんのなら、同盟組むわ!」
信長君は考えた末、長政君の条件を快諾して同盟を組むことにします。
信長が条件を反故にして朝倉を攻める
信長君は上洛後、朝倉君に命令します。
「とりあえず上洛して!」
しかし、朝倉君の答えは……
「いや、無理っしょ!?」
と、あっさり拒否。
これに対して信長君が取った行動は金ヶ崎城(朝倉領)の攻略でした。つまり、長政君との約束を破り、朝倉君の領地を攻めたことになります。
「えっ?どうしたらいいの?信長君と同盟結んでるのに、朝倉君攻められてるやん。どうしよう、どうしよう……」
悩みに悩んだ末、長政君が出した答えは
「信長君、嘘つきやな。やっぱ許せんわ」
というものでした。
姉川の合戦が勃発
約3万の兵力を誇った織田信長・徳川家康連合軍と1万8000人の浅井長政・朝倉景健連合軍が衝突した場所が、滋賀県長浜市の姉川付近でした。信長陣営には、木下秀吉(豊臣秀吉)もいます。
姉川の南側から攻める信長・家康軍に対し、長政・景健軍は北側から攻め込みました。
姉川付近で激闘が繰り広げられ、この戦いによる戦死者は両軍で約2500人。しかも、この3倍におよぶ負傷者が出たことで、姉川は血で真っ赤に染まったといわれています。
下の画像は、合戦場に建てられた「戦死者之碑」です。
古戦場付近には「血川」や「血原」の地名が残されていることからも、合戦の壮絶さが伝わってくるのではないでしょうか。現在、血川のあった場所は田んぼになっているため川はなく、下の画像のような説明書きが立てられていました。
姉川の合戦は結果的に信長軍の勝利に終わります。長政は姉川の合戦後にも抵抗を続けましたが、3年後に小谷城を包囲され、28歳の若さで自刃しました。
朝倉景健は逃げ延びますが、天正3年(1575年)に自害させられたとのこと。
一般的には「姉川の合戦」で知られていますが、これは徳川家における呼称です。織田方・浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼んでいます。
姉川古戦場 DATA
- 名称:姉川古戦場
- 所在地:滋賀県長浜市野村町
姉川古戦場はJR長浜駅から約10km。JR利用の場合は、レンタサイクルやタクシーの利用がおすすめです。
MAP
国道365号線と姉川が交差する場所には「姉川古戦場」の表示が見えます。
現在は野村橋が老朽化のために車両が通行止めとなっています。また、姉川の古戦場付近には駐車場がないため、車でお越しの方はご注意ください。
徳川家康陣跡
姉川の合戦は徳川家康が大活躍したことでも知られています。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも姉川の合戦について描かれていました。ぜひ、当時の徳川家康陣跡も訪れてみてください。
さいごに
浅井長政は織田信長を裏切った「裏切り者」のイメージがあるかもしれません。しかし、最初に約束を破ったのは織田信長でした。どちらが正義というものでもありませんが、浅井長政も義兄と戦うことになり、辛かったのではないかと察します。