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歴史  |    2025.01.28

琵琶湖西岸の城下町・大溝とその周辺を巡る、歴史の旅【中編】

今の大溝の町は、JR近江高島駅から北東へ300メートルほどの総門のあたりを中心にして広がっています。といっても、ごく狭い範囲なのですが。

面として広がっているので、「どこがスタートで、どこがゴール」とはなかなか決められません。以下の順番はあくまで一例です。

前編はこちら

琵琶湖西岸の城下町・大溝とその周辺を巡る、歴史の旅【前編】

乙女ヶ池と大溝城天守台

では、実際に歩いてみましょう。まずは、駅の南東にある乙女ヶ池に行きます。

時代劇のロケ地にもなる乙女ヶ池

古代の入り江が今に残る乙女ケ池
古代の入り江が今に残る乙女ヶ池

まず目に入るのは、散策路の一部として作られた橋でしょう。橋げた部分はコンクリートや金属ですが、手すりや橋板部分は木が使われています。太鼓橋状の部分があったり、池の上で直角に曲がっていたりと、なかなか凝っています。

周囲は田んぼで、背景は山です。

ぱっと見は木橋なのと、周囲の風景もあって、たまに時代劇のロケ地になっています。

戦国期の天守台を残す大溝城跡

乙女ケ池の北の端に今も残る大溝城天守台
乙女ヶ池の北の端に今も残る大溝城天守台

この乙女ヶ池を外堀として利用したのが、大溝城でした。

その大溝城は江戸時代の初めにはすでに廃城となっていて、建築物や石垣の石は甲賀水口城(滋賀県甲賀市水口町)に移されました。しかし、天守台の石垣だけは今も乙女ヶ池の北側に残されています。

石の積み方は戦国期によく見られ、安土城とも共通する野面積みです。自然石をそのままか、単純に割っただけで積み上げています。また、よそで見る「天守台」と比べあまりにコンパクトです。

城は織田信長から、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が変わるに従い、軍事拠点から権威の象徴へと意味合いを変え、同時に巨大化しました。

ですから、このコンパクトさも「戦国期の城ならではの特徴」といえそうです。

江戸時代の大溝の中心地跡、分部神社

初代藩主の分部光信を祭る分部神社
初代藩主の分部光信を祭る分部神社

天守台の周囲の半分は高島市民病院の敷地になっています。その建物の間をすり抜けるようにして、天守台から100メートルあまり北へ行くと、分部神社があります。

すでに廃藩置県も済んだ明治13(1880)年になって建立されました。祭神は初代大溝藩主だった分部光信(わけべみつのぶ)です。

大溝城があったころは、ここが三の丸でした。また、分部家の時代になってからは、陣屋の中でも中心になる御殿が置かれました。

田舎の神社としてもごくごく小さなものです。しかし、今回の街歩きが「江戸時代の町の名残を求めて」のものならば、見落とすわけにはいかないでしょう。

唯一の大溝藩時代の遺構、大溝陣屋総門

復元された大溝陣屋総門
復元された大溝陣屋総門

分部神社から、直線距離でさらに北へ200メートルほど進んだところにあるのが、大溝陣屋総門です。

この総門の内側(西側)が武家屋敷のある武家地、外側(東側)が商家の集中する町人地になっていました。かつては、門の左右は板塀が続き、内と外をしっかりと分けていたようです。

大溝藩時代の唯一の遺構です。しかし、傷みがひどいだけでなく、改装されて住居として使われ、門柱には真っ赤な郵便受けがかかっていました。正直なところ、これでは「文化財」とか「遺構」と呼ぶのがためらわれます。

しかし、復元工事が行われました。2024年4月に完成し、現在は「大溝まち並み案内処」としての機能も持っています。大溝の見どころに迷うようならば、乙女ヶ池よりも先に立ち寄ってもよいでしょう。

復元前の大溝陣屋総門
復元前の大溝陣屋総門

古い商家を次々再生した高島びれっじ

油商の建物を再生した高島ビレッジ1号館
油商の建物を再生した高島ビレッジ1号館

「高島びれっじ」は、総門のほぼ隣接したところにある数軒をまとめて呼ぶ名前です。このあたりはかつては商家が集中していた区画です。

1997年、約150年続いた油商の建物を、地元商工会の有志が改修して最初の1軒がスタートしました。現在はこれを1号館とし、中はキャンドル工房となっています。

その後、周囲の古い建物も順次再生しました。現在では8号館まであり、カフェやパン屋、食事処などが営業しています。

江戸時代の街づくりの姿を残す町割り水路

通りの中央に作られた町割り水路
通りの中央に作られた町割り水路

次に、かつての町人地を歩いてみましょう。

総門から西側の武家地は、廃藩置県で家臣のほとんどが大溝を去ったこともあって、現在ではかつての町並みを想像するのが難しくなっています。一方、東側の町人地は通りや家々の区画はほぼそのままのようです。

お寺がいくつもあって、これだけでも古い街なのがわかります。特に注目してもらいたいのが、どの道でも中央を流れている水路です。

飲用・防火用に作られたもので、「町割り水路」と呼びます。「町割り」とは区画整理のことで、大溝の陣屋町では街づくりに必ず、水路が伴っていたのです。

江戸時代の区画と水路がそのまま残っているのは、「江戸時代の繁栄」と同時に「近代以降は大幅な開発の対象にならなかった」結果でしょう。

また、道の片隅にいくつも「江戸屋町」「職人町」「紺屋町」「蝋燭町」など江戸時代の町名を示す石碑が作られています。これらも、かつての姿をしのぶ手がかりになります。

蝦夷地探検の近藤重蔵は大溝で亡くなった

これまで歩いてきた地域とはJRの線路を挟んで反対の西側、山のすそにお寺や神社が並んでいます。

そのうちのひとつが日吉神社です。ここには創建がいつだったかもわからないぐらい古い神社があったものの、元亀2(1571)年の比叡山焼き打ちの際、織田信長の軍勢に焼き払われました。「比叡山」と名前がついているために、延暦寺だけが焼かれたようなイメージを持ってしまうかもしれません。しかし、実際には近江一帯が攻撃の対象になったのです。

社殿は天正17(1589)年に再建され、神社は大溝の領主となった分部氏からも庇護(ひご)を受けました。

琵琶湖西岸唯一の曳山まつりである「大溝祭」はこの日吉神社の春の例祭で、5月4日が本祭となっています。

また、近くの瑞雪院(圓光寺の塔頭)には、蝦夷地探検で知られる幕臣・近藤重蔵(1771〜1829)の墓があります。重蔵は長男が起こした殺人事件の責任を問われ、大溝藩に預かりの身となり、この地で亡くなりました。

続きはこちら

琵琶湖西岸の城下町・大溝とその周辺を巡る、歴史の旅【後編】

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この記事を書いた人

柳本 学

滋賀県大津市在住のライター兼カメラマン。守備範囲を広げ、「あまり例のない、文章・写真から制作まで一括で請け負えるホームページクリエイター」としても活動しています。ビジネス、文化、科学技術なども書いてきましたが、地域社会に重点を移す途上です。かつては全国紙 の記者・カメラマンでした。取材参加は阪神・淡路大震災、オウム真理教本部捜査(山梨県)、村山富市・金泳三日韓首脳会談(ソウル)など。稲盛和夫さん、松田聖子さんらのインタビューも撮りました。ホームページ:https://atelier-pentad.com/

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