大溝で近世の雰囲気を味わったら、次は周囲にも足を延ばしてみましょう。
古代にはすでに、飛鳥や京から日本海に抜けて、さらには朝鮮半島への途上ともなる街道や港があったため、様々な遺物があります。
大豪族の石棺が元の場所のまま見られる鴨稲荷山遺跡
琵琶湖周辺には大豪族がいたようで、いくつもの古墳や古墳群が残っています。
大溝中心部から2キロあまり北上したところにある「鴨稲荷山古墳(かもいなりやまこふん)」もそのうちのひとつです。
「前方」部分は失われていますが、全長約45メートルほどの前方後円墳で、6世紀前半に作られたと考えられています。明治35(1902)年に発見され、発掘調査の結果、家形石棺が出土しました。
石棺の中には、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾のほか、鏡・玉類・環頭大刀などの副葬品が収められていました。これらは朝鮮半島・新羅の王陵の出土品と酷似しています。
被葬者はわからないものの、副葬品の豪華さから、かなりの有力者だったのは間違いのないところです。また、この地域と朝鮮半島との間で盛んな行き来があったとも推測されています。
石棺が置かれている場所は発見当時のままです。覆い屋で保護されていて、この石棺は窓ガラス越しに実物を見ることができます。
はたしてなんと見る? 神代文字碑
安閑神社(あんかんじんじゃ)は鴨稲荷山遺跡からさらに約1キロ北上したところにあります。集落の中にあるごくごく小さい神社です。
この神社のすぐ前に、不思議な図柄が刻まれた石があります。垂直に立てられ、一見、石碑のようです。「石そのものは、形からして古墳の石室の一部では」との見方もあります。
目を引くのは、文字とも絵とも見える、刻まれた線です。「神代文字(かみよもじ・じんだいもじ)」の一種とされています。
鎌倉時代中期、「漢字が渡来するより前に日本で使われている文字があった」と主張する神道家や国学者が現れました。彼らのいう「文字」が神代文字です。ただ、この説は現在では否定されています。
神代文字とされるものの多くは「15世紀に韓国で作られたハングルを模したもの」あるいは「全くの空想で作り上げた」が定説です。
安閑神社の祭神は安閑天皇ですが、創建年・由来などはわかっていません。 この“神代文字”が刻まれている碑も「いつだれが作った?」「その目的は?」「なぜここにあるのか?」などは一切わからず、書かれている模様の意味も不明です。
この神代文字碑は「なにか珍しいものを見たい」という方の好奇心をくすぐるかもしれません。
壮観、阿弥陀如来像が居並ぶ鵜川四十八体石仏群
鵜川四十八体石仏群は大溝中心部から国道161号を2キロ弱南下し、旧道(西近江路)に入ったところに安置されています。
石仏はいずれも高さ約1.6メートルほどあり、花こう岩製の阿弥陀如来像です。
かつては、名前のとおりに48体あったようですが、13体は江戸時代の初めに慈眼堂(大津市坂本)に移されました。また、昭和62(1987)年には2体が盗難に遭いました。現在ここに残っているのは33体です。
「琵琶湖の対岸にあった観音寺城(近江八幡市安土町)の城主、六角義賢が天文22(1553)年に建立した」との伝承があります。しかし、永享8(1436)年に作られた文書にも登場することから、そのときにはすでに存在していたと考えるのが自然です。
このような立派な石仏が安置されているのは、「近代になってからとは違って、琵琶湖の西を抜ける街道が中世には幹線だった証拠」と考えてもよいかもしれません。
鴨稲荷山遺跡などにはレンタサイクルがおすすめ
大溝の城下町を見るだけならば、徒歩で十分です。
しかし、鴨稲荷山遺跡や鵜川四十八体石仏群となると、自転車ぐらいは必要になります。
大溝には2つのレンタサイクルがあります。
・びわ湖高島レンタサイクル(受付:JR近江高島駅構内観光案内所)
湖の中に立つ鳥居でおなじみの白鬚神社も自転車ならば10分程度です。また、サイクリング自体を楽しむのならば、大溝中心部から約20キロ北、旧マキノ町にあるメタセコイア並木も目的地にしてよいでしょう。
いずれのコースも琵琶湖の周辺を走るだけなので、大きなアップダウンはありません。
景観を愛でる静かな旅がしたいのならば、大溝へ
大溝やその周辺には、派手なアトラクションはありません。観光地としては物足りなく思う人もいるかもしれません。
大溝で見て、感じるものは「景観」です。
万葉集に詠まれた風景とは、おそらくは今も大きくは変わっていません。江戸時代の町割りや水路は当時と位置を変えずに残り、古代豪族の古墳や中世の石仏群まであります。各時代の歴史がいくつも重なっているのが大溝とその周辺なのです。
重要文化的景観への選定は、大溝の景観の価値を世に示すきっかけになりました。とても静かな旅になりそうですが、都会ぐらしの人にすると、大溝の一見なんでもない町並みを歩くのも、一種の非日常になるのではないでしょうか。