大溝は琵琶湖北西部、高島市の一角です。「城下町」とよく呼ばれますが、わずか2万石の大名・分部家が拠点としたところで、町の範囲は広くありません。
派手な観光スポットもありません。20年前30年前ならば、旅行ガイドブックからも無視されていたぐらいです。
しかし、この小さくて静かな町の価値は次第に理解されるようになりました。2015年には「大溝の水辺景観」として重要文化的景観に選定されています。
歴史の街といえば、まずは京都でしょう。しかし、インバウンドの影響もあって、喧騒(けんそう)の中です。「ゆっくり歩きながら、歴史を感じたい」という方は、京都からJRで約50分の大溝も選択肢に入れてみませんか。
3回にわたって、大溝とその周囲を紹介します。
重要文化的景観70カ所あまりのひとつ
「重要文化的景観」は2005年に施行された改正文化財保護法で定められました。「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で、我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と定義され、保護の対象ともなっています。
今までに、全国で70カ所あまりが文化庁により選定されました。たとえば、東京ならば「葛飾柴又の文化的景観」、高知では「四万十川流域の文化的景観 源流域の山村」、熊本では「通潤用水と白糸台地の棚田景観」があります。
「大溝の水辺景観」は2015年に加えられ、大溝城下町部分を中心に約1,400ヘクタールがその選定範囲です。
古代に始まる大溝の歴史
大溝は琵琶湖の北西部、湖面と比良山地に挟まれた小さな平野にあります。古代にはすでに、奈良・京都から日本海に抜ける北陸道が通り、湖上交通の拠点でもありました。
万葉集にも詠まれた交通の要衝
万葉集には大溝やその周辺を呼んだ歌が6首も収められています。
大御船泊ててさもらふ高島の 三尾の勝野の渚し思ほゆ
いづくにか我が宿りせむ高島の 勝野の原にこの日暮れなば
「勝野」とは大溝の古名です。これらの歌からも、万葉の時代にはすでに港などがあり、交通の要衝として発達していたことがわかります。
信長のおいが築城し、街づくりも開始する
しかし、今の景観に直接つながるのは戦国時代からです。
天正6(1578)年、織田信長の命により、おいの織田信澄(のぶすみ)が大溝城を完成させました。古代から残る「乙女ヶ池」を堀とした水城です。城の縄張り(建物などの配置計画)は、信澄の妻の父親であった明智光秀とされています。
信澄はまた、周囲から商人らを移住させ、城下町を形成しました。
大溝城築城当時、琵琶湖岸にはすでに安土城・長浜城・坂本城がありました。信長はひし形に配置した4つの城で琵琶湖を押さえ、全域の水運などを掌握したのです。
光秀が起こした本能寺の変の際、信澄は関与が疑われ自害に追い込まれます。その後、城主は目まぐるしく変わり、城も解体されました。いつ解体されたかは正確にはわからないものの、江戸時代に入ったときににはすでになかったようです。
ただし、この天守台の石垣だけは今も残っています。
江戸時代は2万石の大溝藩が陣屋を置く
1619年になって、外様大名の分部(わけべ)氏が伊賀上野(三重県)から転封され領主となりました。大溝城はすでにありません。また石高も2万石だったので、城持ちになるほどの大藩でもありません。
役所としての機能だけを持つ陣屋を置き、ここで政務が執られました。また、さらに街が整備されました。今に残る町のレイアウトは主に分部時代に作られたものです。
本来ならば「陣屋町」と呼ぶところでしょう。しかし、戦国時代の大溝城の記憶もあり、街づくりも大溝城築城と同時に始まっていたことから、多くの場合「城下町」と呼ばれるようです。
この「大溝藩」は分部氏が領主のまま明治まで存続しました。
近江商人のひとつ、高島商人の拠点
戦国末期から江戸時代にかけて、ここ高島郡大溝を拠点とし、京都や東北などでも活躍した商人がたくさんいました。彼らは「高島商人」と呼ばれます。
「近江商人」はあまりに有名ですが、細かく見ると、八幡商人(滋賀県近江八幡市)や日野商人(日野町)などに分かれます。高島商人もこれら近江商人の中の一団です。
明治になってすぐに破たんしたために、現代ではほとんど聞かない名前ですが、小野組も高島商人でした。主に奥州(東北)と京都の交易で活躍し、幕末には、ともに京都の三井組(現・三井グループ)や島田組とも比較されるぐらいの豪商でした。
また、「高島屋」はもともとは高島商人が京都で始めた米屋の名前です。その婿養子が商売を始め、自分の古着・木綿商の店に名前を引き継ぎました。その店が発展して、百貨店の高島屋になっています。
鉄道の時代になって開発からは取り残される
近代に入ってからは、琵琶湖西岸はどちらかというと、裏街道のような存在でした。東海道線・北陸線が通った東岸ばかりが開発されたのです。
まだ高度成長期の最中の昭和50(1975)年にJR湖西線が全線開通しましたが、これも開発の起爆剤にはなりませんでした。建設した最大の理由は「京都・大阪から日本海に抜けるのには、東岸を通るよりも早い」であり、地元のためのものではなかったのも一因かもしれません。
開発から取り残されたのが幸いだったか、不幸だったかは難しいところです。しかし、「そのおかげで、今の町並みが残った」ぐらいはいってもよさそうです。