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もの・こと  |    2023.09.08

滋賀にラピュタがあった!!土倉鉱山跡

こんにちは!Mediallライターの あおきりえ です。

ところでみなさん、「滋賀のラピュタ」と呼ばれる場所があるのをご存じですか?
今回は、滋賀のラピュタこと「土倉鉱山跡」をご紹介します。

滋賀のラピュタはここ!!

地図でみると、このような場所です。

国道8号線にある千田北交差点から国道303号線に合流、あと少しで岐阜県だ!という位置にある長浜市木之本町金居原という地区までたどり着くと、土倉鉱山跡という看板がみえてきます。

看板は遠慮がちに立っていますので、しっかり確認してくださいね。

あと少しの距離ですが、ここからが険しい道となります。
道路は車のすれ違いが無理な幅で、ガードレールのない場所もあります。

慌てず、ゆっくり向かうとたどり着きます。

ラピュタを狙うには西日の差す時間がベスト

車を走らせていると、目の前に鉱山跡が見えてきます。

写真手前には広場があるので、そこに車やバイクを止めましょう。

訪れたのは2023年の冬。
ちょっと暗くなってきた頃でした。

ラピュタ感を出すためには、西日が差す時間帯を狙うべきでしたね。

土倉鉱山跡の歴史

少しだけ、土倉鉱山跡の歴史を追ってみます。

鉱山が開発されはじめたのは明治43年で、銅鉱石の発掘が行われてきました。
最盛期には約400世帯、人口1,500人ほどの町になっていたそうです。

いま残っている場所は、第3選鉱場跡といいます。
第二次世界大戦がはじまった頃、奥にあった第1・2選鉱場が雪崩の被害を受けたため、昭和15年にはこの選鉱場をメインにしました。

写真中心右寄りに、丸いタンクのようなものがあります。

これは薬剤を使って銅を分離させるタンクの跡で、浮遊選鉱の特徴です。
雪崩で崩壊した第1・2選鉱場も同じく浮遊選鉱だったといわれていますが、まだ場所は確認されていません。

昭和30年頃に最盛期をむかえ、月に2~5万トンもの銅を生産。
しかし、貿易自由化による海外からの流入に勝てず、昭和40年に閉山しました。

当時は小学校の分校や映画館まであり、賑わっていたとのこと。
車を停めた場所にはなにがあったのかな?と思いを馳せてみました。

閉山から半世紀以上がたち、乗ったりすると崩れるのでは?という場所が何か所もありました。

ルールを守って楽しもう

廃墟ブームなどもあり土倉鉱山跡にも人が押し寄せた時期があるそうで、鉱山内にまで立ち入っていたとのこと。
危険ということで、現在は柵ができていました。
残念ですね。

朽ちていく姿も雄大で、そこに歴史が詰まっているのに… と思ってしまいます。

転落者が出て救急搬送、なんてこともあったそうです。
柵の外もダメ、もう立ち入らないで!と言われてしまったら、ラピュタが楽しめません。
マナーは守りましょう。

土倉鉱山跡を楽しむ方法

土倉鉱山跡では、ガイドさんにお話を伺いながら見学する方法もあります!

土倉鉱山の歴史探訪ガイド-もりのもり-さんは、土倉鉱山跡や森林を守るための活動をされています。
その活動の一環で「歴史探訪ガイド」として土倉鉱山跡を案内されていたり、トチノキやブナといった巨木をめぐる「巨木トレッキングツアー」を開催されているんです。
季節に合わせたイベントもありますので、ぜひホームページをご覧ください。

ツアー、個人に関わらず、マナーを守って見学しましょうね。

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この記事を書いた人

あおき りえ

滋賀県在住の看護師webライター。旅とお酒と猫が好き。地元である滋賀をメインに、「こんなところがあったんだ!」と感じてもらえる記事をお届けします。

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