阪急電鉄の「茨木市駅」から徒歩6分の位置に、1960年創業の昆布と鰹節のお出汁の専門店「山崎屋」があります。今ではすっかり珍しくなった店頭で鰹節が削られるお店で、近くに行くといい香りが漂ってきます。専門店でも使用される昆布や鰹節が店頭にならび、おいしいつくだ煮や贈答品も並ぶ老舗のお店です。
1960年にこの店を創業した父親の跡を継いで、日々、お店に立ち続けている2代目の土肥誠一さんに話を伺いました。
店名が「山崎屋」である理由とは?
筆者が土肥さんのお店を初めて訪れたのは、かれこれ10年以上も昔のことです。名字が「土肥」なのになぜ店名が「山崎屋」なのかずっと気になっていました。
「実は、山崎というのは父親の恩人の名前なんですよ(土肥さん)」
まさか山崎が人の名前から来ていたとは知りませんでした。
「父親は当初、この店の店長でした。母親と結婚する際に、店長のままではかっこ悪いと思ったようで、店を買い取ろうとしたんですよ。その店は出店したばかりだったので、先方もそう簡単には良い返事をしません。そこで、父親と先方との間に入って話をまとめてくれたのが山崎さんだったんです(土肥さん)」
仲介してくれた人の名前を店名にするなんて、よほどお世話になったんでしょうね。「山崎屋」がオープンしてから8年後、土肥さんは誕生します。
「当時、店は月曜日が定休日でした。父親は朝早くから仕入れにいき、私が起きたころにはすでに家にはいませんでした。学校から帰っても、父親は仕事終わりにビールを飲み、早くに寝てしまうので、あまり会話をした記憶はないですね(土肥さん)」
時代を感じさせる職人っぷりです。
一度は店を継ぐかと聞かれたものの…
中学生になると土肥さんは周囲の友人の影響もあり、自動車やバイクに興味を持つようになります。中学3年生のときには、別の学校から赴任してきた先生の自動車の授業で、学年で唯一満点をとったのです。
「これで調子乗って、自動車の道に進もうと考えたんです。その高校に入るには競争率が高かったため、周囲からは反対されました。ただ実際は余裕で合格できたんですけどね(土肥さん)」
高校に入学し原付デビューをし、その後、中型バイクに乗るようになります。
「同級生もバイクに興味をもっていたため、ほとんどが中型バイクに乗っていました。放課後になったら同級生と六甲山などに行って、バイクを走らせていたんです(土肥さん)」
山を攻めてバイクを操っていた土肥さんは、レースにもチャレンジします。
「鈴鹿サーキットに行って、レースに出ましたけど、周囲が速すぎて驚きました。自分はお山の大将だったんだなと思わされましたよ(土肥さん)」
バイクに夢中の土肥さんも、高校卒業を控え、進路をどうするか決断しなければならなくなります。
「父親からその時だけ『後を継がないか』と言われました。兄は言われたことはなかったのに、私に商才を感じたのかもしれません(土肥さん)」
ただ、土肥さんは父親の話を断り、バイクで食べていくことを選ぶのでした。
チームに所属してレースに挑戦するも世界は遠く…
高校卒業後、ご縁があってバイクチームに所属することになりました。世界を目指すと公言してレースにチャレンジし続けます。
「最高の成績は国内で2位でした。耐久レースでも400台中2位の成績をとったこともありました。ただそれでもバイクで食べていくのは大変です。一緒のレースに出ている人に抜かれた時に、世界に出る人はこういう人だと思い、レーサーを断念しました(土肥さん)」
4年間レースにチャレンジした土肥さんは、中古自動車の販売店で営業マンとして働くことになります。
「入社して2か月目でトップ営業マンになりました。3か月目もトップだったので、これだったら自分でやった方がいいと思い、知人と会社を作ることになったんです(土肥さん)」
知人を社長にして立ち上げた会社では、持ち前の営業力を発揮して、どんどん成果を積み重ねていきます。
「ある時には、有名メーカーのディーラーが、どうやったらそんなに車が売れるのかと聞きにくることもありましたよ(土肥さん)」
大きな年商を上げるようになったころ、新しい仕組みの導入が検討されます。その最初の店を土肥さんが任されることになったのですが、店を立ち上げる途中に、ちょっと話が違うとなったようです。
「社長と意見が合いませんでした。話し合いをしたものの、決裂して自分は会社を去ることになったんです(土肥さん)」
会社を去った後、土肥さんはタクシー運転手として生計を立てることになります。
姉のひとことで実家に帰ることに
京都でタクシー運転手をしていたころ、土肥さんは、テレビである光景を目にします。
「たまたま見たテレビで、東日本大震災の映像が流れていたんです。その時に、なぜか不安な気持ちが大きくなって、涙が止まらないという状態になりました。いろいろな病院で検査をしたものの、最終的には精神科で薬をもらうことになったんです(土肥さん)」
薬を飲んで楽にはなりましたが働けず自宅から出られず、ある日、お姉さんと電話で話した時に、実家に帰るように言われました。
「震災で大丈夫かとこちらが電話したのに、あんたこそ大丈夫なのかって言われました。声に元気がなかったんでしょうね。姉に言われ、仕事を辞めて実家に帰ることになりました(土肥さん)」
実家に帰ったばかりの土肥さんは、家から出ることもできず、家の中でパソコンに向かって投資をしていたそうです。
「ただ、ある時、1日で大きな損を出してしまったんです。それで投資を辞めて、外に出ようと思うようになりました(土肥さん)」
それからは電信柱1つ分の距離を目標に外に出て歩く日々を過ごします。少しずつ距離を伸ばして、なんとか店に立てるようにまで回復するのでした。
父親の死をきっかけに店を継ぐことに
土肥さんが店に立つようになって5年ほどが経った頃、土肥さんの父親が体調を崩し、亡くなってしまいます。
「それまで父親の姿を見て、いつかこういう日が来るかと思っていましたが、店を継ぐことに決めました(土肥さん)」
店を継ぐことになったものの、昆布や鰹節を扱う小売店の経営は簡単ではありません。
「今まで昆布や鰹節を使って出汁をとっていた世代が、体調を崩したり、亡くなったりしてだんだんと店に来る人の数が減ってきていました。最近の人たちは、昆布や鰹節で出汁を取る機会が少ないため、このままではまずいと考えていたのです(土肥さん)」
店頭での売り上げが下がる中、土肥さんはネット販売に活路を見出します。
「地元の同業者からアドバイスを受け、山崎屋でもネット販売に力を入れるようになりました。ただ、最初は上手くいかず、ネット販売の売上が月に3万円とか、8万円という状況でした(土肥さん)」
ただ、ネット販売をやっていて良かったという状況がやってきます。
「コロナで店売りがほとんどなくなりました。その時にネット販売は逆に好調になり、店の売上を確保することができました。もしあの時、ネット販売をやっていなければ、店はなくなっていたでしょうね(土肥さん)」
この時のお客さんが今もリピートしてくれています。土肥さんのお店のリピート率は30%と高く、これはネット販売の担当者も驚く数字なのだそうです。
最後に土肥さんに今後の展望を聞くと
「このまま売上をあげて安定すれば、株式会社にしたいと考えています。日々の業務で必死ではあるのですが、店を大きくして理念を掲げていくことを描いています(土肥さん)」
便利になった時代に、お出汁の文化を後世に遺すのは難しいことなのかもしれません。その困難に身を削る思いでチャレンジしている土肥さんの姿には、筆者も勇気をもらいました。取材後、おいしそうなつくだ煮を購入して帰ったのは言うまでもありません。
山崎屋情報
店名:山崎屋
住所:大阪府茨木市元町8-17
営業時間:10:00~17:30
定休日:日・祝日
HP:http://yamazakiyakonbu.com/