ずっと昔からの面影が残っている街がある。歴史が中世からずっと地続きになっている。人にそう言うと、驚かれます。
「中世とはまたずいぶん昔ですね…! 鎌倉時代や室町時代? 今は令和ですよ? 面影が残っているわけがない」
ええ、私もそう思っていました。「高部(たかぶ)」の街に行くまでは…。
高部は、茨城県の常陸大宮市にあります。県の北西部。少し西に行けば栃木県です。きっと皆様もこの高部を訪れたら驚くでしょう。まるで自分がタイムスリップしたかのような錯覚に陥るのでは…と思うのです。
私はこの高部の歴史を、3つの「ショウブ」というキーワードで順に紹介していこう、と思います。
◆勝負の高部:鎌倉~戦国時代
◆商舞の高部:江戸時代
◆ショウ舞の高部:明治時代~

文化遺産がたくさん残っており、歴史の風を「そのまま」味わえる街並みがあります。そのすべての史跡を紹介することは難しいため、代表的なものに絞って紹介します!
勝負の高部:佐竹氏の西部戦線の最前線
まずは『高部館跡(高部城跡)』から。たかぶやかた、あるいは、たかぶだて、と読みます。
案内板によりますと、佐竹景義という武将が鎌倉時代末に高部氏を称してこの館を構築した、とのこと。

「館ですか? 城ではなく?」
…どうしても私たちは城と言えば、姫路城のような豪壮な天守閣のある城を想像しがちです。しかし城も、時代によってつくられ方がだいぶ異なるものです。全国の山や丘などにつくられた城は、戦国時代と江戸時代の間、安土桃山時代あたりで拡張されていき、江戸時代の初めには大規模な城郭が増えていきます。つまり、戦国が統一され、徐々に収まりつつある頃に、豪壮な天守閣がつけられた城ができた…ということ。
…では「それ以前」の城はどうなのか?
分かりやすくなくていい。行きにくくてもいい。尚武。武を尊ぶ。強ければ強いほどいいんです。城が落ちたら一族滅亡の危機に瀕します。敵が攻めにくく、味方が守りやすい城。山や丘の上のほうがいいでしょう。山城です。落ちない城こそが素晴らしい! 常駐し、住み着いて守り抜く。だから「館」。
…詳しい地理の説明を、案内板から引用しましょう。

『高部館の位置は山方と馬頭を東西に結ぶ街道と大子へと至る道がT字に交わる交通の要所。佐竹氏の領地(対那須氏・白河結城氏)を防衛するうえで、また軍勢を派遣するうえで重要な拠点』
現在の茨城県の常陸国の北部には、由緒正しき武家の名門「佐竹氏」がいました。一方、西の現在の栃木県、下野国の北部には武名誉れ高き「那須氏」や「白河結城氏」がいた。
佐竹氏 対 那須氏・白河結城氏!
高部館は、この争いの最前線、要所だったのです。山の上に館が建てられました。標高291メートル。周辺をぐるりと見渡せる。もし敵が攻め寄せてきたら、すぐに見つけて迎撃することができるでしょう。
「難攻不落の山城、要害ということですね! しかし、一気に大軍勢で攻め寄せられたら危ないのでは?」
いえ、備えは万全です。なぜなら「城は一つではなかった」から。別の「出城」を近くに持っていたのです。それが『高部向館(たかぶむかいだて)』!

こちらは高部館から緒川を挟んですぐ対岸、標高230メートルほどの尾根の先端部につくられました。つまり高部館の下の「川向こう」。だから向館です。向かい合った館が二つあった…。
「なるほど! もし西から敵勢が川を渡って攻めてこようとしたら、両側の山から挟み撃ちにする、というわけですね!」
その通り。言わば、高部館と高部向館は佐竹領を守る強い門番コンビ。仁王像。一族内の争い(佐竹の乱)によって、一時、中から庶流の山入氏に占領されてしまいましたが、佐竹氏の宗家が奪還してから以後は「高部衆」という軍団が街を守っていたそうです。
まさに、戦国の勝負を左右する街だったのです。
商舞の高部:江戸時代の宿場町、商業の舞台
しかし戦国の世が終わり、江戸時代に入ると、常陸国の佐竹氏は秋田へと国替えになりました。高部は徳川氏の支配の下で、戦闘的な要所から平和的な宿場町へと変わっていきます。

江戸時代には、鉄道も自動車もありません。
徒歩や馬、船などで進み、運ぶしかない。下野国や奥州に近い街道沿いの高部の宿場町は、多くの旅人や物資が行き交ったことでしょう。高部には、近隣の農村から採れる和紙や楮(こうぞ)、葉煙草などが集まりました。自然が豊かな地域です。地理条件を活かした特産品がつくられ、売られていく…。
往時を偲ぶ建物の一つが「見世蔵」でした。

お店兼倉庫。だから店の蔵、見世蔵。特徴的な見世蔵の持ち主であった平塚家は、米や味噌、醤油や呉服などを扱う豪商でした。そう、高部の街は、街道沿いの豪商が集まってきて栄えた「商業の舞台」だったのです。
ショウ舞の高部:ダンスホールまであった!
高部の街の繁栄は、明治に入っても続きます。
1902年(明治35年)につくられたのが『間宮家住宅』。

淡いグリーンの壁がひときわ目立ち、目に優しい。木造の「和洋折衷様式」でつくられています。何とビリヤード場やダンスホールまで設けられた! 街の社交場兼商談の場として、楽しく使われていたことでしょう。
さらに目立つのが、街並みの中心にある岡山家の『喜雨亭(きうてい)』という建物です。木造の三階建て。その三階部分には、右から読むと「花の友」という横書きの文字が読めます。

「…花の友? 友の花? お相撲さんの名前ですか?」
違います。お酒の名前です。岡山家は江戸時代に紙問屋として発展した商家ですが、1873年、明治6年に家業を酒造業に転換しています。この時に醸造されたのが「花の友」というお酒。
つまり、この目立つ建物は、自社商品を宣伝するランドマークとして機能したのです。ネットもSNSも無い時代。抜群の宣伝効果! 敷地内にある庭園「養浩園(ようこうえん)」を見下ろすように建っており、岡山家では「三階」と呼んでいた、とのこと。

「ハイカラな建物あり、ダンスホールあり、広告板あり…。高部はショウ舞、見せて魅せる舞台になったんですね! …でも現在は、あまり栄えているようには見えませんが」
確かに、過去の繁栄が「そのまま」現在の繁栄につながるわけではありません。
鉄道ができ、自動車が普及するにつれて、街道沿いという地の利が徐々に失われていったのです。「山奥にある不便な街」になりました。特産である和紙も洋紙に取って代わられます。葉煙草も需要が落ち込んでいきます。いつしか高部は衰退し、人口も減り、「過去に栄えていた街」へと変わっていった…。
しかし、だからこそ、戦後の乱開発の影響を受けず、昔の街並みや面影が「そのまま」残っている、とも言えます。変わらないものがここにある…。
高部の歴史は、これからもずっと続いていきます。

美和地域センターの別館は、そんな高部の歴史を活かしつつ、新たな交流を生み出す施設として活用されているのです。
残舞に学ぶ
高部は「残舞」です。残された歴史の舞台。
きっと皆様もこの街並みの中に立てば、歴史を「じかに」感じ、過去を顧みつつ未来へと想いを馳せることができるでしょう。
…えっ、街並みを歩いたらお腹が空く、ですって?
ご安心ください。高部から西に少し進んだところに、「北斗星」の愛称で呼ばれる『道の駅みわ』があります。

しいたけの原木をかたどったオブジェが出迎えてくれる。ここでは、手打ちそばや新鮮な野菜などを味わうことができます。
私は美味しい鮎の塩焼きをいただきました。このあたりの清流で鮎が採れるのです。

腹が減っては戦はできぬ。商売もダンスもできません。
ぜひ皆様も、しいたけのようにたくましく伸び、鮎のように活発に躍動するためにも、高部を訪れてみてはいかがでしょうか? きっと、色々な想いが心の底からショウアップされて、感じること、学べることが多い、と思いますよ!
高部宿の街並み
〒319-2601 茨城県常陸大宮市高部3970
◆公共交通機関:鉄道の駅から離れており、バスもあまり便数がありません。バスの場合は、常陸大宮市の大宮駅前から、茨城交通の「道の駅北斗星行き」に乗車して「高部」の停留所で降ります。くれぐれも、帰りのバスの時刻などをご確認の上でご乗車ください。
◆自動車:最寄りの高速インターは「那珂インター」です。118号線を常陸大宮方面に進んで、常陸大宮の市街地の北にある「東富交差点」で左折し、北西の玉川村駅方面に向かいます。しばらく道なりに進み、花立トンネルを通り抜けると「鷲子交差点」に出ますので、右折して東の方角に進めば、高部宿の街並みが見えてきます。左折して西の方角に進めば「道の駅みわ(北斗星)」に着き、さらに西に進めば栃木県に行けます。那珂インターから高部宿の街並みまでの距離は、約30キロメートルです。
栃木県側から行く場合には、那須烏山市から29号線で峠を越えるか、那珂川町から293号線で峠を越えるかになります。県境の峠を越えてしばらく進むと「道の駅みわ(北斗星)」が見えてきますので、そのまま直進すれば、高部宿の街並みが見えてきます。
「美和地域センター」の近くに、トイレや自販機がある無料の駐車場があります。なお、街並みの文化遺産の多くは私有地であり、非公開のものも数多くあります。不法駐車や不法侵入にならないようにお気をつけください。