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スポット  |    2025.03.28

園空の城ヌカダ|茨城県那珂市

兵どもが夢のあと、という「城跡(しろあと)」に惹かれる方は多いと思います。私も、その一人です。

茨城県の水戸市の北部、那珂市には「額田城」という城がありました。

「額田…。がくでん、ですか? それとも、ひたいだ?」

違います。額田は「ぬかだ」と読みます。日本史の教科書に出てくる「額田王」は「ぬかたのおおきみ」と読むことが多いのですが、こちらは「ぬかだ」です。ぬかた、ではなくて、ぬかだ。

この額田城跡が、とても良いスポットなんですよ!

城の最後の城主が滅ぼされたのは1591年。1600年の関ヶ原の戦いの前のあたり。今から四百年以上も前に廃城となっている。たいてい、そのような城の跡は朽ち果てて野ざらし、藪の中になっているか、もしくは完全に復興されて、面影が残っていない綺麗な公園に整備されていることが多いものです。しかし、この額田城は違う。完全に自然に還っているわけではなく、かといって完全に作り変えられているわけでもない。当時の面影を残しつつも、訪れる人が散策しやすいよう整備されている。その絶妙なバランスが味わえる。おすすめの城跡。

本記事では、そんな額田城跡を紹介したいと思います。

いざヌカダの城へ!

まずは最寄りの駅の紹介から。那珂市には、水戸駅と郡山駅とを結ぶ「JR水郡線(すいぐんせん)」が通っています。その支線、常陸太田駅方面に向かう路線の駅の一つに「額田駅」があります。無人駅です。

JR水郡線の額田駅

この額田駅から東に向かって、幹線道路である国道349号線を横断すれば、額田地区の中心部に着きます。江戸時代には、水戸黄門様として有名な水戸藩の「徳川光圀」の弟、松平頼元が二万石を与えられて「額田藩」として治めたこともある土地。額田藩は1700年に水戸藩に返却されましたが、独立した藩として成立していた時期もあるためか、額田の地名をとても大事にしている雰囲気が地区に漂っています。

額田城跡に向かう前に、私は「額田神社」にお参りしてきました。額田小学校の隣。ここは「鹿嶋八幡神社」とも呼ばれ、江戸時代には三代将軍の徳川家光から石高も授けられた由緒正しき神社です。参道の長さ、何と380メートル! 参道の途中の木の幹に、とても分かりやすい例えを使った長さの説明書きがありました。

額田神社の参道は380メートル

この額田神社から少し東に車を走らせて、脇道に入る。広い駐車場が見えてきました。ですが…。

「…ヌカダは、本当にあるだろうか?」

ジブリアニメ映画に出てくる「天空の城」のように、その存在を私は疑った。なぜなら、駐車場から伸びる道が、どう見てもただの「山道」にしか見えなかったからです。駐車場はこんなにも広いのに…?

額田城跡の駐車場1

おっかなびっくり、私は歩いていきます。じきに城跡の見取り図が描かれた看板が見えてきました。

見取り図(遊歩道案内図)

うん、この先にあるようだ。しかし、人影はない。「額田地区交流センター」が近くにあるようなので、何かあればそこに飛び込めば良いか、と思いつつ、勇気を出して進んでいく。すると…。

「えっ、ここを歩いていくの?」

道は、元は城のお堀であったであろう下の方向に伸びていました。堀の下、しかも自然たっぷりの道を歩いていける城跡はなかなかありません。歩きやすいよう整備されています。じきに、階段が見えてきました。

二の丸の跡と本丸の跡

堀の下の道を歩いた先に階段が…!

上には何があるのか。階段を上った私の目に飛び込んできたのは…。

「…ヌカダは本当にあったんだ!」

そこは木陰から一転、ぱっと明るい空間! 広々とした「二の丸」の跡が広がっていたのです。

広々とした二の丸の跡

平らな台地状になっていました。机が置かれている。花壇が目に優しい。おそらく、この地区の方たちが定期的に整備をされているのでしょう。しかし、ここにも人影は見えない。一本の紅梅が、綺麗な花を咲かせていました。さらに進んだ私は、城の紹介が書かれた案内板を見つける。そこに書かれた記述は以下の通り。

『額田城は、建長年間(1249~1256)佐竹氏五代義重の二男義直が、この地に築城し、額田氏を称した。一〇代義亮の時、佐竹氏宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹十三代義人に攻められ落城、額田氏は滅ぶ。その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり、以後七代照通まで続いたが、天正十九年(1591)佐竹二〇代義宣に、照通に異心ありとし、攻められ落城した。照通は、陸奥へ亡命し、以後廃城となった。城の歴史は十七代約三四〇年続いた。』

額田城跡の案内板

佐竹氏は「関東八屋形」の一つにも数えられた武家の名門です。常陸国(今の茨城県)に割拠し、鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代には、主に常陸国で勢力を伸ばした一族。その佐竹氏と深い因縁のある額田城。元々は佐竹氏の一族が築城した城でしたが、代を重ねるうちに佐竹の宗家と対立して合戦となり、落城。その後は佐竹家の家臣の小野崎氏が治めます。しかしその小野崎氏も戦国乱世の風に吹かれて、独立を画策していく。かの有名な奥州の伊達政宗と密約を交わしました。それを察知した佐竹宗家の当主、義宣に攻められてしまう…。

独立を試み、しかし果たせず、二回も落城した城!

ただ、天然の地形を利用した要害、名城であったために、佐竹義宣もなかなか攻め落とせませんでした。関東の雄である後北条氏を滅ぼした天下人、豊臣秀吉の後ろ盾をちらつかせて、何とか開城させます。最後の城主、小野崎照通(注:当初は「昭通」ですが本記事では「照通」で記載)は、伊達政宗を頼って奥州へと亡命します。

しかし、関ヶ原の合戦後、名門の佐竹氏は秋田の久保田藩へと国替えを命じられます。一方の照通は、伊達政宗の娘婿である松平忠輝に従い、信州、越後へと付き従っていましたが、忠輝が改易されて浪人になってしまいました。因縁深き佐竹氏が常陸から去ったことを知り、照通は旧領、額田の地へと戻ってきます。じきに彼は、初代水戸藩主になった徳川頼房、つまり水戸黄門様のお父さんに六百石で迎えられ、水戸藩に仕えます。先述した通り、その後、額田の地は光圀の弟である松平頼元に与えられるのですが、おそらく照通は馴染みのある旧領、額田の土地のことを、色々と水戸藩に伝えたのではないでしょうか?

過去の歴史に浸っていた私はふと我に返り、案内板を後にして本丸跡へと向かいました。二の丸跡と本丸跡も、やはり深い堀で仕切られている。台地の上から堀のしたへ下り、また登る。そこに残っていたのは…。

「…ここが、本丸?」

本丸の跡には看板が一つ

杉の林の中に、ぽつんと「本丸」と書かれた看板がありました。ええ、それだけです。ぽっかりと光が差しています。本丸跡から顔を上げると、杉木立の間から広い空が見えました。

本丸跡から空を見上げてみる

…歴代の城主たちも、この空の下で、懸命に生きてきたのでしょう。現代風に作り変えられておらず、昔の面影がたくさん残っているところが、とても良い。国破れて山河在り…という気分に浸ることができます。

本丸のある台地の周りには遊歩道が設けられており、実に趣深い風景を楽しむことができました。倒木の向こうには、豊かな田園地帯が広がっています。トラクターの音がかすかに聞こえる。豊かな水は、昔から変わらずこの額田の地を潤してきたのでしょう。

城跡の向こうに農地が広がる
遊歩道と水

過去と現在、そして未来への境界線。天空の城は空へと消えていきましたが、額田の城はしっかりと足をつけて、田園の中、空の下で、見事に土地に溶け込んでいたのです。

「…ヌカダは滅びぬ、何度でも蘇るさ!」

私は、そんな気分を胸に、城跡を去りました。

城はお菓子も美味しいです

栗が丸ごと入っていて美味しい!

おみやげに買ったのは、城跡の近くの和菓子屋さんで売られていたお菓子です。その名もずばり『額田城』。パイ生地で栗餡が包まれている逸品でした。額田城跡を訪れる際には、ぜひどうぞ!

アクセス:

◆公共交通:JR水郡線「額田駅」で下車。東の額田城跡までは約2キロ離れています。

◆自動車:常磐自動車道の「東海スマートインター」より、西に約3キロ。近隣に駐車場が数か所あります。本記事上では「駐車場1」に車を停めて歩いていくルートを紹介しましたが、「駐車場2」や「阿弥陀寺」から歩いていくルートもあります。駐車場の使用、城跡への入場は無料です。

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この記事を書いた人

ヒストジオいなお

茨城県、水戸市、またその周辺の情報をシェアしていきます。歴史と地理が好きです。食べ歩きも好きです。

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