
蛇口のみなもとは、大菩薩峠の湧き水
甲州市の山あい、上条集落にある古民家ベーカリーカフェ「上条庵」を訪れた。

土間に足を踏み入れると、太い梁と裸電球のやわらかな光が迎えてくれる。座敷のちゃぶ台でコーヒーをいただいた。


ひと口飲んで、思わず手が止まった。
やわらかい——でも、それだけではなく、香りがふわりと広がり、そのまま奥行きを持ってゆっくりとほどける。
苦味も酸味も角がなく、すべてがなめらかに溶け合っている。
普段は酸味のあるコーヒーが得意ではないのに、不思議とすっと体に入ってくる。
マグカップになみなみと注がれた一杯を、気がつけば最後まで飲み干していた。胃への負担がまるでない。体が喜んでいるような、そんな感覚だった。

「水なんです」と店主の小野田さんが教えてくれた。
上条集落には水道が通っておらず、暮らしの水は大菩薩峠から引いた湧き水だという。
蛇口をひねれば山の水が出る——そんな環境の中で、このコーヒーは淹れられている。
その水は、店主によれば硬度が一桁台に近い『超軟水』。これほどやわらかい水は日本全国でもほんのわずかな場所にしか存在しない。
軟水は素材の香りを余さず引き出す。
厳選されたスペシャルティコーヒーの豆が、この水と合わさることで、どこにもない一杯になる。水が違うと、こんなにも違うのかと思い知らされる。




武田信玄の金山が、集落を守った

コーヒーの余韻のなかでふと外に目をやると、まるでタイムマシンで連れてこられたような景色が広がっていた。
どうしてここだけ、忘れられたみたいに大昔の風景が残っているのだろう。

上条庵がある上条集落は、2015年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
茅葺の切妻造主屋が雛壇状に並ぶ景観は、山梨を代表する山村集落の姿を今に伝えている。20軒のうち13軒が江戸時代から残る民家というのは、全国的に見ても極めて稀なことだという。

この景観が守られた背景には、武田信玄の時代にまでさかのぼる歴史がある。
集落の上流には、かつて黒川金山があった。金の採掘に関わる人々がここに暮らし、金山の秘密を守るため、人の出入りは厳しく制限されていた。
神社とお寺が集落への入り口に立ち、関所のような役割を果たしていたという。

武田から徳川へと時代が変わっても、機密としての管理は続いた。新しいものが入り込まず、大きく作り替えられることもない——その閉鎖性が、図らずもこの景観を守り続けた。

現在、集落の周囲には果樹畑が広がっている。春になると、スモモや桃の花が咲き、集落はやわらかな色に包まれる。
長い時間のなかで守られてきたこの場所で、上条庵は静かに扉をひらいた。
古民家に、音楽が流れる午後

店主の小野田さんは甲州市の出身。東京でアパレルの仕事をしていたが、コロナ禍を機に古民家を探しはじめ、上条集落のこの物件に出会った。

築180年の古民家は、重要伝統的建造物群保存地区ゆえに外観の変更がほぼ許されない。
許可申請から改修まで4年——丁寧に、手をかけて仕上げた空間だ。その記録はインスタグラム(@kamijyoan)に残されている。

上条庵ではときおり、ジャズライブなどの催しが開かれている。
この日は、学生たちによる演奏が始まった。
土間に響くトランペット、やわらかく広がるキーボード、それを支えるドラムとベース。
音楽はこの場所の空気にすっとなじみ、ちゃぶ台や土間、集まった人たちの気配と一緒に、ゆるやかに流れていく。
ふと気がつくと、地元のおばちゃんたちが身を乗り出して聴いている。演奏の途中で、小さな子どもが祖母に手を引かれて入ってくる。それでも誰も気に留めることなく、音はそのまま続いていく。

日本でも指折りの超軟水があり、長い時間が守られてきた場所に、いま人が集まり、音が重なり、新しい時間が生まれている。
山あいの静かな集落にある一軒の古民家。訪れる価値がある、特別な場所だ。少し足をのばしてでも、この空気を味わいに来てほしい。
上条庵のInstagram
https://www.instagram.com/kamijyoan




