壁一面にびっしりと並ぶのは、アメリカやヨーロッパ、アジア、南米など世界中の旅人から寄せられたレコードとCD。カフェ&ラウンジを併設した神奈川県小田原市のゲストハウス「Tipy records inn photon(ティピー・レコーズ・イン・フォトン)」では、レコードやCDを持参すると、宿泊代が500円割引になるのです。これまで100枚以上が持ち込まれました。
地域との交流を楽しむ「何かがはじまっちゃう」宿

2024年にオープンした「Tipy records inn photon」は、オーナーのコアゼユウスケさんにとって4軒目のゲストハウスです。2016年に小田原駅から徒歩3分、飲食店が並ぶ商店街「おいしいもの横丁」を抜けた路地に最初の宿「Tipy records inn」を開き、現在は5棟からなる全12室に拡大しています。
10代からバンド活動をしていたコアゼさんは、毎週のように小田原駅前のレコード店に通い、新しい音楽に出会うのを楽しみにしていました。音楽を通して多くの人に出会い、自分を表現していたといいます。
ところが、2016年にレコード店が閉店。
「音楽と触れ合う場所がなくなったことが本当に嫌で。それなら宿と音楽を一緒にしちゃおうと思ったんです」
この思いを実現したのが、「Tipy records inn」です。
「Tipy records inn」シリーズの5棟はいずれも徒歩1分ほどの距離にあり、好みに合わせて宿泊スタイルを選べます。
- Tipy records inn photon:3つの客室とチェックインカウンター兼カフェ&ラウンジを備える戸建て
- Tipy records inn hanare:4つの客室を備える戸建て
- Tipy records inn room:アパートメントタイプの客室
- Tipy records inn house:築50年の元旅館をリノベーションした一棟貸し、最大12名まで宿泊可能
- Tipy records inn nook:2段ベッド2台とシングルベッド2台を備える客室、最大6名まで宿泊可能

「Tipy records inn」は単なるゲストハウスではありません。移住支援や起業に関するイベントを開催するなど、人と人、地域と人をつなぐ場を提供しています。
コンセプトは「何かがはじまっちゃう」。仲間と楽器を持ち寄り、音を重ねて曲をつくるバンドのように――。次々と新しい試みを仕掛けるコアゼさん。しかし、最初からうまくいったわけではありません。
勉強も運動もできた少年が不登校に

小学生時代のコアゼさんは、サッカーとゲームが好きな少年でした。あまり頑張らなくても勉強や運動をそつなくこなし、「すごく優秀というわけじゃないけど、オールマイティーにできた」といいます。
歯車が狂い始めたのは、中学2年生の頃。
友人たちが成績を意識し始めると、それまで問題なくできていた勉強も、徐々に追い抜かされるようになりました。
そして、周囲との関係もぎくしゃくし始め、ある事件が起こります。文化祭の準備の最中に水筒の水を飲んだことを、友人から強く責められたのです。
「どうでもいいじゃないですか。でも、僕はブチ切れちゃって」
思わず手が出たといいます。それ以来、コアゼさんは学校に行かなくなりました。水筒事件がきっかけになったものの、原因はそれだけではありません。勉強や人間関係の行き詰まりが積み重なり「もう全部嫌になっちゃった時期」と振り返ります。
ただ、完全に家にこもっていたわけではありません。友だちとの交流は続き、放課後に合流することもありました。中学3年生になると、給食だけ食べに行くことや、午後だけ登校することも。文化祭や運動会には顔を出し、学校にほとんど行っていないのにリレーの選手に選ばれることもありました。
音楽に熱中した中学時代

ギターを始めたのもこの頃です。両親が音楽好きだったこともあり、家にはエレキギターやピアノをはじめ、フルート、トランペットなど、さまざまな楽器がそろっていました。
コアゼさん自身も幼少期からピアノを習い、楽譜を読むなど音楽の基礎力は自然と身についていたといいます。「ゆず」への憧れから、アコースティックギターを買ってもらうと、時間を忘れて弾くようになりました。
音楽に夢中になっていたコアゼさんに対し、両親は無理に「学校に行け」とは言いませんでした。本人も「進学は諦めていました」とあっさり。
中学卒業後は、母親が探してきた音楽の専門学校に通うことになります。同時に通信制高校にも入学し、新たな学生生活が始まりました。
中学校に行かなかった理由の1つに、「将来、なりたいものが決まっているわけでもないのに、みんなで同じことを同じペースで勉強する意味がわからなかった」というコアゼさん。
親に言われて行き始めた音楽の専門学校でも、授業内容に納得がいかず「自分がやりたいのはこれじゃない」と感じるようになります。
最初の1カ月は出席したものの、その後は授業に出ず、バンドの練習だけ参加する日々。結局3カ月で辞めてしまいます。通信制高校も、課題の提出が滞り、1年ほどでフェードアウトしました。
ふたつの学校を中退した16歳のコアゼさんは、バイトを始めます。蕎麦屋のホールスタッフとピザ屋の配達を掛け持ちして働きました。稼ぎは月に10万円ほど。未成年だったこともあり、「十分お金がある」と感じていたといいます。
力仕事に明け暮れた、おしぼり配送の日々

18歳になると、周囲が進学や就職を決める時期を迎え、コアゼさんも将来を考えるようになります。そこで、アルバイト先の先輩に相談して、おしぼり配送の会社を紹介してもらうことに。「中卒でも運転ができればよい」と聞き、運転免許を取得して就職しました。
トラックで飲食店を回り、使用済みのおしぼりを回収して新しいものを納品する仕事です。1日に100軒近く飲食店を回り、工場での積み下ろしも行う力仕事でした。
「力仕事ったらなくて、毎日走り回っていました。当時はすげえマッチョでした」と笑うコアゼさん。
それでも運転は好きだったので、苦にはならなかったといいます。最初は大和市方面を担当し、2年目には小田原市を任されるように。やがて神奈川県西地域全域を回るようになりました。
どんな店でおしぼりが多く使われているか、厨房の様子はどうか、そこで働く人はどんな人なのか。地域の飲食店の実情を知る経験は、のちにゲストハウスを運営するうえで生きてきます。
近くには神奈川県を代表する観光地・箱根もあります。入社当時は、箱根でのおしぼりの納品数は限られていましたが、海外からの観光客が増えるにつれ、需要が増加。コアゼさんが退職する2012年には、納品が追いつかない日もあったといいます。
おしぼり配送の仕事は休日の融通が利いたこともあり、当時、コアゼさんはバンド活動を続けていました。しかし、25歳になる年に転職を決意します。前年に結婚し、二世帯住宅を建てるためのローンを組む必要があったのです。
安定を求めてバスの運転手に

おしぼり配送の会社では役職もつき、給料も上がっていました。ただ、住宅ローンを見据え、より安定した仕事に就く必要があると感じていたといいます。中卒だったコアゼさんは「学歴もないし、できることは運転だけだった」と当時を振り返ります。
転職について、親や親戚を含め周囲の人に相談した結果、候補に挙がったのはバスの運転手でした。路線バスや観光バスの運転には大型二種免許が必要で、運転の最上位スキルといえます。運転が得意という強みを活かすことができる選択肢でした。
コアゼさんは「やってみよう」と一念発起。大型二種免許を取得して、大手グループのバス会社へ転職します。その日から、路線バスの運転手として、小田原市内や箱根を走る毎日が始まりました。
「安定した会社に入れたことがうれしかったですね」
一方で、早朝勤務や夜間勤務も多く、勤務時間は長時間にわたることも。入社した翌年に子供が生まれましたが、家族と過ごす時間は限られました。
やっぱりバンドがやりたい

2年ほど経つと、「バンドみたいに個性を生かす仕事のほうが自分に合っているんじゃないか。でも、ローンもあるし、家族もいるし、辞められない」という気持ちで毎日ハンドルを握っていました。
バスの運転手は安心と安全を確実に届ける仕事です。自分の個性を出す余地はほとんどありません。
定年まで働くことができる会社ということは理解していました。先輩の中には、74歳まで運転している人もいます。コアゼさんは、当時まだ25歳。今までの人生を折り返すほどの長い年月を、バスの運転手として過ごす自分が想像できませんでした。
「やっぱりバンドがやりたい」と悶々とする日々。バンドを続けるには、時間とお金が必要です。
なんとか環境を変えたいと考えたコアゼさんは、副業を探し始めます。株やFXといった投資、太陽光発電、不動産、さまざまな選択肢を調べましたが、どれも初期費用がかかり現実的ではありませんでした。
その頃出会ったのが、民泊を扱うAirbnbです。Airbnbは、世界中の旅行者と自分の部屋を宿として貸したい人をマッチングする仕組みです。個人でも、比較的少ない資金で始められます。
「Tipy records inn photon」の基本情報
住所:〒250-0011 神奈川県小田原市栄町2-5-30
アクセス:小田原駅東口から徒歩3分
https://tipyrecordsinn.com/