
広島県安芸郡熊野町は、日本の毛筆の8割を生産する筆の町です。書道用や日本画用の筆、化粧筆など、さまざまなタイプの筆を作っている熊野町では、町民の1割がなんらかの形で筆産業にかかわっています。
筆づくりの技術者は筆司(ふでし)と呼ばれます。かつて筆司の世界は男性中心で、女性は補助的な役割を担っていました。その中で女性で初めて熊野筆の伝統工芸士となったのが、碓井佐千江(号は真光)さんです。現在93歳の碓井さんは、どのような人生を歩んできたのでしょうか。
家庭内で作られていた筆
-熊野筆歴史写真①大正時代(作業場)-1024x662.jpg)
熊野町の筆づくりの歴史は、江戸時代後期に始まります。
山に囲まれた熊野町では、農業だけでは食べていけませんでした。そのため農閑期には出稼ぎに出て、帰りに筆や墨を仕入れ、売りながら帰ってきていました。また、その頃、広島や有馬(兵庫県)で筆づくりを学んだ人が熊野に帰り、技法を伝えたことから熊野で筆づくりが始まったといわれています。
碓井さんが生まれたのは1932年。当時の筆司の世界は男性が中心で、女性たちは内職で筆の一部工程を請け負っていました。
「生きるため、お金を稼ぐためにできるのは、筆を作ることしかなかった。百姓をしとるから、食べるもんはなんとかある。でも、一銭でも金にしようと、皆、家で筆を作っとった」
と、碓井さんは当時を振り返ります。田畑を耕すために飼っていた牛や馬も、戦争のために供出しなければならなかった時代でした。
-熊野筆歴史写真②昭和14年頃(組合)-1024x734.jpg)
1945年8月に戦争が終わりました。その直後の9月、熊野町を強い台風が襲います。戦後の混乱に台風が拍車をかけたのです。被害は甚大でした。山が崩れて堤防が決壊し、道もすっかり塞がりました。
熊野町を出るには、何時間もかけて山や谷を越えていくしかない状況でした。
「隣町のお寺の住職さんの話を聞くために、腰に弁当をさげて山を越えたことがあるけどね。弁当ゆうても、日の丸弁当よ。その頃はあちこちで、誰かが殺されたり、ものを盗られたり、追いはぎが出たりしとった。山を越え谷を越えるのも簡単じゃない。だから、なかなか町の外へ出るものはおらんかった」
幼い頃から母親の仕事を手伝っていた碓井さんも、中学校を卒業すると本格的に筆を作るようになりました。
「そうはいうても、今のようにちゃんと就職したというわけじゃない。生きるために筆を作るしかなかっただけ」
その後、町の有力者である政治家や医者などが力を合わせ、熊野町に道路やトンネルを造る事業を進めました。道路が整備されたことによって、熊野町は少しずつ暮らしやすくなり、にぎやかになっていきます。
「道路ができて、トンネルができて。それまでは本当に大変だったから、ありがたかったね。若い人たちはこんなこと知らんでしょうけど」
碓井さんが繰り返す言葉から、山に閉ざされたかつての熊野の暮らしの過酷さがうかがえました。

中国からの帰還者の指導で質が向上
戦後10年ほどで熊野筆の品質が格段に向上したと、碓井さんは振り返ります。その陰には、ある先生の熱心な教育がありました。
戦後、海外へ赴任していた人たちが熊野へ帰ってきて、学校の先生などの仕事に就きました。中国から帰還した加藤先生も、そのうちの一人です。
当時、熊野町では主に各家庭で筆が作られていました。つまり、見よう見まねの自己流で筆が作られていたといえます。中国で書を学んでいた加藤先生には、熊野筆の問題点がはっきりと見えていました。
「加藤先生は『熊野の人間は筆は作っとるが、字がなっとらん』と言って、中学生だけでなく大人たちにも、ていねいに書を教えました。
自己流で筆を作っていた熊野の人たちは、書を学んで初めて、どのような筆が求められているのかを理解するようになったんです」
字を書くためにはどのように筆を作ればよいのか。書家は何を求めているのか。
それを追求し始めると、質は見る見る向上していきました。書のための筆として確固たる地位を築いた熊野筆は、1958年に全国の毛筆生産量の9割を占めるまでになりました。
熊野筆が伝統的工芸品に認定
碓井さんも加藤先生から熱心に書を学びました。この頃、碓井さんは羊毛筆(ヤギの毛の筆)を得意とする工房に就職し、20以上ある筆づくりの全工程を担当するようになります。
「気丈な人、それにしっかりした人だった」と周囲から評価される碓井さんは、筆づくりにのめり込みました。すべての工程に携われることが「おもしろかった」のだと碓井さんは語ります。熱心に仕事をするうち、他の筆司たちをはるかにしのぐ技術を身につけました。
とくに碓井さんの技術が光る工程は、筆づくりの最初の「選毛(せんもう)」でした。よい毛を見極めなければ、よい筆は作れないのです。
碓井さんの代表作は「墨吐龍(ぼくとりゅう)」。この筆でなければ書けない、と熱心に支持する書家が多かった逸品です。
若い筆司たちは、碓井さんが作る筆の見事さに惹かれ、碓井さんの筆を目標として日々精進したといいます。

1975年、通商産業大臣(現在の経済産業大臣)が「伝統的工芸品」を認定する制度がスタートしました。この年に伝統的工芸品として認定された35品の中のひとつが、熊野筆です。伝統的工芸品を作り出す高度な技術と経験を持った職人は「伝統工芸士」として認定されるようになり、熊野でも認定のための試験が行われました。
しかし、碓井さんはこの年の認定試験を受けられませんでした。女性だったからです。
「『女は引っこんどれ』『男のいいなりになっとれ』が当たり前の時代。女が仕事をしようとしてもダメなんじゃ、とあきらめを感じていた」
碓井さんは淡々と語りました。

その後、女性にも門戸が開かれるようになりました。しかし、初めての試験を終えた碓井さんに「女のくせに生意気な」と声を浴びせた人もいたそうです。結果は不合格でした。
それでも、碓井さんの技術が飛びぬけて優れていることは、誰の目にも明らかでした。熊野筆事業協同組合は、このまま女性であることを理由に碓井さんを伝統工芸士に認定しないわけにはいかないと考えました。
「組合からもう1回受けてみろといわれて、受けたんよ」
1981年の認定試験で碓井さんは合格し、女性として初めて、熊野筆の伝統工芸士となったのです。
「合格したからといって、うれしいとか、万歳とか思うことはまったくなかったよ。伝統工芸士になっても、何も変わらなかったから。待遇も変わらんし、女は出しゃばるなという雰囲気も、何ひとつ変わらなかった。
でも、熊野筆が伝統的工芸品になって、みんなが筆でお金を稼げるようになって、町がだんだんよくなったね。私はただ、教えてもらった通りにやってきただけ。それだけなんよ」
一番の勲章

しかし時代が進むにつれて、男性優位だった筆司の世界も少しずつ変わっていきました。
2026年現在、熊野筆の伝統工芸士11人のうち、碓井さんを含めて3人が女性です。
女性が認められるようになってきたのは、碓井さんがただひたすらに腕を磨き、書く人の思いに応える筆を作り続けてきたからではないでしょうか。
「いい仕事をすれば、喜んでもらえるんです。組合の推薦で、外国にも行きました」
イギリスやアメリカで開催された、全国から選りすぐりの伝統工芸士たちが集まる伝統工芸展で、碓井さんは筆づくりのデモンストレーションを行いました。
2006年秋には秋の叙勲を受けました。碓井さんの技術の高さが、あらためて評価されたのです。

「外国の広さを体験できたのは、一生懸命筆を作ってきたおかげ。外国では家がきれいだったのには驚いたねえ。世の中はどんどん変わるから、外国のことも勉強しなくちゃと思うたよ」
筆を作ってきて一番の思い出は何ですか、とたずねると、碓井さんは少し考えてから答えました。
「各国大使の集まりに参加したことが一番の勲章かね」

手の写真を撮らせてほしいとお願いすると、碓井さんはそっと手をテーブルの上に載せました。筆を作り、人生を切り拓き、女性たちの活躍する道を作ってきた、美しい手でした。




