台湾からの留学生として来日した李さん。勢いで友人と名古屋の大須に台湾カラアゲのお店をオープンしました。テレビに取り上げられて一時は100人以上の行列ができるほどの人気店に。しかし、信頼していた仲間にお店を乗っ取られてしまったのでした。
前編では李さんがお店をゼロから人気店にするまでの努力の日々を紹介しています。
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元祖とニセモノのお店が同じ商店街に同居!?
「全て自分の管理が甘かったせいだ」悔しくて、もう一度やり直したいとの想いで店舗を探し回り、3か月後に再び大須で店を立ち上げました。
なんと、大須には元祖とニセモノの「李さんの台湾名物屋台」が混在することになったのです。ニセモノの店は李さんの店に何かと言いがかりをつけ、たびたび営業妨害をしましたが、長くは続かず数年で潰れました。李さんが台湾から仕入れていた材料を調達できなかったため途中からカラアゲの味が変わり、お客が離れていったためでした。
名古屋にカラアゲブーム到来
常連さんを全てニセモノの店に持っていかれてしまっていたので、李さんはゼロからの再スタートに。「おいしいカラアゲいかがですか?」再び地道に宣伝活動を続け、3年程かけて経営を軌道に乗せました。商店街の人たちからは「こんなに繁盛しているなら、もう1件店を出したらどうか」と何度も言われるまでになっていきました。
「売上が半減すると思って、2号店を出すつもりはなかった。でもね、半年くらい言われ続けると気持ちが動いたよ。商店街をリサーチすると2号店を出してもうまくいっている店もあったから、やってみるかという気持ちになったんだ」
2号店がオープンした頃、大須にカラアゲブームがやってきたのです。
大須はカラアゲの激戦区となり、最盛期には約100軒ある飲食店のうち、カラアゲ店が20店舗以上を占めていたといいます。
李さんのお店には、人気となる秘訣があります。
カラアゲ容器は紙コップではなく「こっちの方が美味しそうに見えるでしょ」とプラスチックの透明カップで提供。さらに、当時はカラアゲもタピオカドリンクもそれぞれ専門店しかありませんでしたが、李さんは両方提供していました。
他の店も李さんの店に倣い、同じスタイルをとりました。休日になると商店街はどこを見渡してもカラアゲのカップとタピオカドリンクを持って歩く人がいたそうです。
今では一時のブームは落ち着き、カラアゲ店の数も9店舗となりました。その中で行列が一番長いのは、やっぱり李さんのお店でした。
「よそ者」から「仲間」へ
李さんが店を立ち上げた時の印象を、大須の変遷を35年以上見守ってきた「お茶の嘉木園」3代目店主後藤康文さんに伺ってみました。
最初の印象は「訳のわからん、得体のしれない奴がカラアゲを売っとるな」というものでした。「ずっと商店街に住んどる僕らにとっては、彼はよそ者だからね。とりあえず、どんな奴なのか様子をみようと思ったのです」
李さんが商店街に馴染んでいくきっかけになったのは、街のお祭りを手伝ったこと。李さんは商店街に溶け込むため手さぐりで努力していました。
李さんを知る人は当時をこう語ってくれました。「大きな声を出してビールの売り子をやったり、差し入れを持ってきてくれたりと一生懸命手伝ってくれましたよ。3年も経つと、頑張りが認められ商店街のハッピを渡されて感激していました」
商店街の人たちは、李さんが外国人だから遠巻きに見ていた訳ではなかったのです。それは、後藤さんも同じでした。
「最初に李さんの様子をうかがっていたのは、台湾人だからではない。日本人でも誰でも同じ対応をとっている。新しく店を始める若い人が商店街のルールを知らずにトラブルになる場合もあるから、まずは出方をみているんです」
李さんは次第に日本人の立場になってものごとを考えることができるようになったといいます。
「店を始めたときは日本人の気持ちが分からなかったから、自分のやり方で通そうとして苦労しました。それから挨拶を毎日したり商店街の行事にも協力して、3年くらいかかって商店街の方から挨拶してもらえるようになったんだ。
今では大須といえば『李さん』と言ってもらえるまでになった。テレビ局の取材が大須に来ると、商店街の人がとりあえず『李さんの台湾名物屋台』を紹介してくれるんだ」
李さんは顔をほころばせながら話してくれました。
来日前は日本のことなんて嫌いだった
今ではすっかり日本になじんでいる李さんですが、来日前は日本に対して良い感情を持っていなかったそうです。
「忍者なんかの日本文化は好きだったけど、教育の影響で日本という国は好きじゃなかった」
親日の国というイメージの台湾ですが、世代によって異なる感情を持っています。
日本が台湾を統治していた時代を経験した80歳以上の世代は親日派が主です。40代~70代になると戦後に中国大陸からやって来た国民党の政権下で「脱日本・中国化」の教育を受けたため、今も反日感情を持つ人がいるそうです。10代~30代はポップカルチャーに詳しい「日本好き」が増えているといいます。
しかし、李さんは「日本に来て印象がガラっと変わった。一番驚いたことは、困っている人をほっとかないことです」と教えてくれました。
来日した翌日、日本語学校へ向かう途中で道に迷ってしまった李さん。オロオロしていると「おにいちゃん、どうしたの?」と母親くらいの年齢の女性が声をかけてくれたのだ。身振り手振りで、一生懸命に日本語学校へ行きたいことを伝えると、女性は学校まで李さんを案内してくれたのでした。
「日本について教えられたことは何が正しくて何が間違っているのか、自分の目で確かめたいと思うようになったんだ。そして日本を知っていくうちに台湾で受けた教育はおかしいと気がつきました」
僕は”日本人”になることにした
李さんは日本が居心地良く感じるようになり、台湾に戻らずそのまま滞在を続けました。そして永住を決意し2012年に日本国籍を取得したのです。
「日本に骨を埋めようと決心したから『日本人』になることに抵抗は全くなかった。商売をやっている責任もあるしね。『李さんは稼いだお金を全部台湾に持って行った』と言われるのが嫌なんだ。日本できちんと税金を払いたい。微力だけど経済にも貢献したいからね」
李さんの夢は、日本全国に「李さんの台湾名物屋台」をつくること。
「47都道府県を全部制覇したい、私の一生を懸けた願いです。カラアゲには日本で経験した嬉しいこと、辛いことが全部詰まった僕の魂だからずっと世界に残ってほしい。僕の人生、それしかないからね」
台湾で日本文化を紹介するつもりで来日した李さん。今では日本中に台湾の食文化を伝えようとしています。日本に台湾カラアゲを広めた男は、きっと今日も街のどこかで、人々の胃袋をわしづかみにしているに違いありません。