
奈良時代に、春日神社の神官たちの手内職として始まった奈良団扇(うちわ)。かつて県内に7、8軒もあった専門店は、時代の流れと共に姿を消し、今では「池田含香堂」一軒のみとなりました。
なぜこのお店だけが残っているのでしょうか? その秘密は、創業170余年の老舗を継ぐ、6代目の池田匡志さん(34歳)の時代に合わせたデザインの変化や団扇の魅力を伝える発信活動にありました。「現状維持では衰退するだけ。たくさんの人たちに奈良団扇を知ってもらうために、新しいことを取り入れながら、伝える機会を大切にしているんです」と語る池田さん。伝統工芸の未来に対してどんな思いを抱えているのか、奈良団扇の魅力とともに伺いました。
実用性と美を両立。伝統工芸「奈良団扇」とは

奈良の伝統工芸品である奈良団扇は、透かし彫りと柔らかなしなりが特徴です。その魅力について、作り手である池田さんはこう語ります。
「実用性と芸術性が高く、バランスが取れたいい団扇です。しなりが良いので、少ない力で強い風が起こせるんですよ」
一般的なプラスチック団扇と比べると、その大きな違いは「軽さ」と「しなり」。プラスチック製は10の力で10の風量しか生み出せませんが、奈良団扇なら同じ力でより多くの風量を生み出せるとのこと。実際に試してみると、軽く仰ぐだけで前髪が揺れるほど強い風が起こせました。初めて使うお客さんも、その軽さと風力に驚くそうです。
また、長く使えるのも特徴の一つ。子どもが振り回して遊んでも壊れず、30年は使えるほどの頑丈さを持ちます。見た目も華やかなので、インテリアとして飾るだけで空間を彩ってくれます。
繊細な竹細工と透かし彫りが魅せる奈良団扇の世界

奈良団扇を作るためには、複数の工程があります。まず竹を割って骨組みを作り、色付けした和紙に「突き彫り」という技法で「透かし彫り」の模様を作り、骨組みと和紙を貼り合わせます。乾燥させた後、縁の処理の仕上げをすれば完成です。
池田さんは、奈良団扇作りの肝となるのは「骨組み作り」だと語ります。
「一般的な団扇の骨組みは20〜30本ですが、奈良団扇は60〜90本ほど。さらに、太さは通常の3分の1で厚みは半分という繊細さです。1本の竹をそれほどまでに細かく裂くのには、高度な職人技術が必要となります」



奈良団扇の美しさを決めるのが「透かし彫り」の技術です。団扇10本分の紙20枚を重ねて一度に彫り上げるという独特の手法で、手製の小刀の細い刃先を折らないようにしながら、細かい模様を掘り抜いていきます。透かし彫りでは鹿や五重の塔といった奈良らしいモチーフや鳳凰といった華やかなモチーフが多く描かれています。170年前に2代目が考案したデザインを今でも作り続けているそうです。
一方、彫り方や団扇の形には当主ごとに個性やこだわりがあると池田さんは語ります。たとえば、現在の池田さんはシャープで細いキレのある彫り方を特徴としているのに対し、前の代では丸みを帯びた優しい彫り方だったそう。歴代当主は、それぞれ自分らしい個性を活かして、奈良団扇を作り上げてきました。


創業から170年、池田含香堂は奈良団扇を作り続けてきました。長く存続できたのは、単に伝統を守るだけではなく、時代に合わせて進化してきたから。池田さんは「現状維持ではどんどん衰退してしまいます。だからこそ、新しいことに挑戦し続けてきました」と語ります。
奈良団扇の発信活動も、その取り組みのひとつです。今でこそSNS発信やテレビ出演など積極的に広報活動をしていますが、先代は取材や見学はすべて断っていたそうです。その理由は、独自の技術が知れ渡ることで真似されるリスクがあったから。しかし、6代目の池田さんは、まったく異なる考えを持っています。
「たとえ僕たちの技法や材料を公開しても、真似されない自負があります。なによりも大切なことは、世の人たちに奈良団扇を知ってもらうことです。伝統工芸品に対して高いハードルを感じないように商品だけでなく、団扇作り体験や工房見学といった、職人や作っている様子などにも興味を持てるような機会をこちらから提供することが大事だと思っています」
「家族だから乗り越えられた」若き継承者を襲う困難の連続

現在、奈良団扇の存続を担う池田さんですが、継承者としての道のりは決して平坦なものではありませんでした。池田含香堂6代目を継いだのは大学卒業後の22歳。その若さで継ぐことを決意したのは、4代目の祖父と5代目の父を早くに亡くし、母親が必死に工房と家庭を守る姿を見て育ったからです。池田さんが工房に入ったことで人手が増えて母の負担が軽減され、団扇制作は順調に進むようになりました。
しかし、本当の試練はここからでした。何時間も同じ姿勢で作業を続ける過酷さは、池田さんの想像を遥かに超えていました。腰や膝に激痛が走り、全身の筋肉痛に耐えながら製作を続けていたといいます。さらに深刻な問題として、骨組み作りの職人が高齢のため仕事ができなくなり、後継者もいないという事態が発生。池田さんと母親はこの危機を乗り越えるべく、香川県で学び、小割の差し柄(通常の半分ほど細く裂いたうちわの骨組み)技術を習得しました。
「家業を継いで最初の数年間は、定期的に大変なことがありました。それでも何とかなったのは、家族経営だからこそ、お互いの状況を深く理解して遠慮なく意見したり、柔軟に動きを変えたりできたからだと思います」
普及から継承へ。逆境から見いだした「ふるさと」を伝える大切さ
池田さんは、奈良団扇を知ってもらうための活動にも力を入れました。大和郡山の現代工芸フェア「ちんゆい そだてぐさ」や「奈良ズ者の仕事場」などのイベントに参加し、団扇作りワークショップや製作実演を実施。テレビ出演や雑誌掲載の機会も得て、奈良団扇の認知度は上がり、店舗に訪れるお客さんやリピーターも増えました。

しかし、活動が波に乗り始めた矢先、コロナ禍によって状況は一変。イベント出展ができなくなり、工房兼店舗への来客が激減し、仕事がなくなる危機的状況に陥りました。しかし、池田さんは悲観することなく、この逆境がこれから進むべき方向を見つけるための転機と捉えていました。
「今までは、ワークショップなどを通じて奈良団扇の認知度を上げることに力を入れてきました。ですが、コロナ禍を機に立ち止まったことで、『伝統を受け継ぐ』ことの大切さや意義について深く考えるようになったんです」
奈良団扇を作り続けるうちに、その質の高さや技術の素晴らしさを感じるようになった池田さん。この素晴らしい奈良団扇を自分の代で途絶えさせてはいけない。そんな強い使命感と共に、やがてその視点は大きく広がり、伝統工芸の継承だけでなく、地域文化そのものを次世代につないでいきたいと考えるようになりました。
「奈良の未来を担う子供たちには、ただ工芸品を知ってもらうだけでなく、自分たちの住む町の素晴らしさに気づいてほしいんです。そして『こんな歴史があるんだ』『こんないいものがあるんだ』と自分の言葉で語れるようになってほしいと思っています」
伝統と共に。地元の魅力を奈良の子どもたちに伝えたい

自分たちの住む奈良の価値に気づき、それを誇りに思える子どもたちを増やしたい。そんな思いから池田さんは、子どもたちに奈良団扇を広める活動にも力を入れています。保育園や小学校で奈良団扇の歴史をわかりやすく説明しながら、自分だけの団扇を作る体験を提供しています。参加した子どもたちは、日本の伝統文化とものづくりの楽しさを学んでいます。
多くの子どもたちは、身近にあるお寺や神社、昔から続くお祭り、伝統工芸品など、奈良にしかない宝物を気にとめずに過ごしています。ですが、もし奈良の宝物に気づいたら「このお祭りはいつからあるんだろう?何のためにあるの?」と好奇心が芽生え、地元への誇りや愛着につながっていくかもしれません。
「団扇づくりをしている時、子どもたちが『きれい!』『おもしろい!』と目を輝かせる瞬間があるんです。そんな時、この活動をしていて良かったなと感じますね。昔から奈良に伝わる素晴らしいものが、今も私たちの町に残っていることを、もっとたくさんの人に知ってもらいたいと思っています」
池田さんが子どもたちに団扇づくりを教えるのは、単に伝統工芸を残すためだけではありません。地元の魅力に気づき、奈良に誇りを持つ次世代を育てたいという願いがあります。団扇作りという小さな体験が、ふるさとへの愛着という大きな花を咲かせる種になる――そんな未来を信じて、池田さんは今日も笑顔で奈良団扇を作り続けています。
池田含香堂
住所:〒630-8224 奈良市角振町16(三条通り)
営業時間:9:00~18:00
TEL:0742-22-3690
定休日:9月~3月 月曜日、4月~8月 無休
公式サイト:https://www.narauchiwa.com/
公式Instagram:https://www.instagram.com/narauchiwa/
