
甲府で生まれ、甲府で育ってきた革工芸の「甲州印伝」。鹿革に漆で模様を施したバッグや財布、名刺入れなどは、山梨に暮らす人にとって身近な存在です。
天正10年(1582年)創業の印傳屋上原勇七は、2026年で444年を迎えます。
鹿革に漆で模様を施す「漆付け」は、印伝でもっともよく知られた技法です。そのほか、印傳屋では煙で鹿革に色と風合いを与える、「燻(ふすべ)」という技法も受け継いでいます。
今回、専務取締役である上原伊三男さんのご案内で、工房を見せていただきました。受け継がれてきた技法と、素材を見極めながら手を動かす職人の仕事を、間近で見ることができました。
すべては、一枚の鹿革から

工房で最初に見せていただいたのは、一枚の鹿革でした。
「鹿にもいろいろな種類がありますが、これは小さい種類なんです。バンビくらいの大きさですね」
広げた革を見ると、手前が首側で、奥へ向かって足側になります。一頭から取れる革は、想像していたより小さく感じられました。
実際に持たせてもらうと、とても軽く、驚くほど柔らかい。鹿革は軽くて丈夫で、使い込むほど手になじむことが特徴です。野生の鹿の革には傷が見られることもありますが、それも天然素材ならではの表情として生かされています。
工房では、白い鹿革が作業台の上に広げられ、周囲のピンから伸びる鎖とクリップで四方から引かれていました。革がたるまないよう、ぴんと張られています。
甲州印伝の核となる素材は、鹿革と天然の漆です。
上原さんによると、鹿革の調達が難しいからといって牛革や羊革で代用したり、天然漆に代わる素材へ置き換えたりすることはしないと、代々言い伝えられてきたそうです。
天然素材である以上、時期によって調達が難しくなることもあります。それでも代替素材には置き換えない。長く守られてきた、印傳屋の原則です。
印伝を代表する技法「漆付け」

工房の一角では、職人さんが金属板の上で灰色の漆を練っていました。
長いヘラを大きく動かし、粘りのある漆を何度も返しながら練っていきます。
次に見せていただいたのが、模様をつけるための型紙です。
「これが型紙です。和紙を手彫りしたもので、伊勢型紙といいます」
細かな模様がびっしりと彫り抜かれた型紙は、紙とは思えないほど精緻です。触れてみると、硬さがありながら、しなやかにたわみました。
染めた鹿革に型を重ね、その上からヘラで漆を置いていきます。
職人さんは、ごく自然な動作ですっとヘラを走らせます。しかし、上原さんの説明を聞くと、その一動作が簡単ではないことがわかります。
「力を入れすぎると漆をこすってしまい、盛りが出ない。かといって力を抜くと、漆が下まできれいに降りていかない。その力加減ですね」
印伝の魅力のひとつが、漆がわずかに盛り上がった独特の手触りです。その仕上がりを左右するのが、ヘラにかける力加減です。
さらに、天然の鹿革はどこも同じ厚さではありません。
「よく見ると、革には薄いところと厚いところがあるんですよ」
革の状態を見ながら力を調整し、結果として漆の盛りが揃うようにしていきます。
「職人は簡単に置いているように見えますが、小さな力加減で変わってしまうんです」
完成した製品からは見えない細かな判断が、一枚の革の上に積み重なっています。
煙で色を生み出す「燻(ふすべ)」

漆付けとは別に、印傳屋が受け継いでいる技法のひとつが「燻(ふすべ)」です。
筒に張った鹿革を、まず藁の煙でいぶしていきます。このあと松脂の煙をあてることで、独特の色と風合いに仕上がるそうです。
この工程は、ガラス越しに見学させていただきました。
大きな太鼓状の筒の下には、土を盛り上げてつくられた窯があります。そこから白い煙が立ちのぼり、筒の周囲へ広がっていました。
窯の前には、白い作業着を着た職人さんが座っています。手には藁の束。火の様子を見ながら、少しずつ窯へくべていきます。
「煙で色をつけるので、色ムラがないことが大事なんです」
煙はふわふわと漂い、一定の形にとどまるものではありません。その煙を使いながら、革に均一に色をつけていきます。
ガラス越しに見ていても、藁をくべ、火と煙の状態を丁寧に確かめながら作業を続ける様子がよくわかりました

印伝を彩る模様には、それぞれ意味や由来があります。
上原さんが例に挙げてくれたのが「小桜」と「とんぼ」でした。
小桜は、日本で古くから愛されてきた桜を意匠化した模様。とんぼは、中世の武士の間で「勝虫(かつむし)」とも呼ばれたことから、武具や装束にも用いられてきました。
また、印傳屋には富士山をモチーフにした「高嶺」や、波を連ねた古典柄「青海波」などもあります。青海波は、海の広がりや幸福を願う吉祥模様として親しまれてきた柄です。
「とんぼにしても小桜にしても、それぞれ意味があります。日本の伝統模様、いわゆる縁起のよい柄ですね」
印傳屋では商品を手に取るお客様に、模様そのものだけでなく、その由来も伝えています。
「幸せを感じながら使っていただきたい。印伝を通して、お客様に幸せになってもらいたい。そういう思いを大事にしています」
柄を選ぶことは、単にデザインを選ぶことだけではありません。意味を知ることで、手にする印伝への思いも少し変わってくるのかもしれません。
型に載せるデザインは、変えていく

伝統柄とは趣の異なる、世界的なブランドとの協業で生まれた型もあります。
工房では、GUCCIとのコラボレーションで使われた型を実際に見せていただきました。
このほか、ティファニーのオープンハートや、キース・ヘリングのデザインを使った例もあるそうです。
企業の周年記念など、社名を入れた特別注文も多いといいます。その場合も、専用の型がつくられます。
鹿革と漆という核は変えない。一方で、そこに載せるデザインは時代に合わせて変えていく。
上原さんは、伝統産業が変化した例として、岩手の南部鉄器の話をしてくれました。海外のデザイナーが加わったことで、色やデザイン、売り方まで変わり、世界へ広がっていったといいます。
「ちょっとしたことなんですよね」
そして、こう続けました。
「とにかくやってみる。うまくいかないことのほうが多いんですが、次はこうしようとまた挑戦する。そのチャレンジ精神があるかどうかですね」
守るものがはっきりしているからこそ、変えるところでは挑戦できる。その姿勢もまた、印傳屋のものづくりを支えています。
技を、次の世代へ

この手仕事を未来へつなぐため、印傳屋では若い世代の職人を継続的に迎えています。
漆を置く技術だけでなく、ミシンを使う縫製など、さまざまな工程で技術が受け継がれています。
上原さんは、ものづくりが好きで、真面目に仕事へ向き合える人は職人に向いていると話します。
印傳屋の製法は、十二代までは一子相伝でした。十三代は、門外不出とされてきた技を公開する決断をします。
「先代は、技法を広く知ってもらうことが印伝の普及につながると考えたんです。大きな決断だったと思いますね」
その後は工場見学も受け入れるようになり、どのような技術で、どれほど大切に手作りされているのかを外へ伝えてきました。
私たちがこうして工房へ入り、漆を扱う職人の手元や、ガラス越しに燻の作業を見られるのも、その決断があってこそです。
甲州とともに歩む

最後に、甲州の地で商いを続ける意味を尋ねました。
「山梨で生まれて、山梨で育てられた甲州印伝です。山梨の人々には、常に感謝しています」
県外や海外へ出かける際、山梨の人がお土産として印伝を持っていき、「喜ばれたよ」と伝えてくれる。そのことも大きな支えになっているといいます。
「地元を大事にする。その気持ちが大切ですね」
鹿革に漆で模様を施す漆付け。煙によって色と風合いを生み出す燻。
異なる技法を担う職人の手が、今日も甲府で動いています。
株式会社印傳屋上原勇七
所在地:〒400-0811 山梨県甲府市川田町アリア201
公式サイト:https://www.inden-ya.co.jp/
※掲載内容は2026年8月時点のものです。




