
田園に囲まれ行き交う車も少ない県道。ゆるいカーブから見逃しそうな脇道を入り、そのまま小さな橋を渡ると駐車場を示す案内板が目に入ります。
ここから店の入口までのおよそ40mは農村景色を愛でるアプローチ、そして、目当てのカレーを賞味するためのプロローグです。
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右手には古の石工の職人技か、はたまた農家の手仕事か、苔むした石垣が連なり周囲の環境と調和した造形美を鑑賞することができます。
左手には水をたたえ苗の整列する田んぼが広がり、それらは新緑に盛り上がる山を逆さ富士のように受け止め、同時に流れる雲を映し出し、決して都会にはない里山ならではの眺めがあります。


懐かしくも新しい空間を愉しむ

店の名は『忠左衛門』。土師ダム(はじだむ/1974(昭和49)年完成/安芸高田市八千代町)建設に伴い湖底に沈みかけた築150年超の移築古民家です。
同市吉田町に移築し約50年を経て、大改築の末、free spaceを兼ねたカフェギャラリーとして来訪者を待っています。
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松の木の梁、栗、檜の柱、欅のカウンター、藁の埋もれた土壁…懐かしさと新しさが混在したモダンな数寄屋建築は、日本人の郷愁を掻き立て、建築的にも見応えのある造りです。
土間は採光豊かなガラス戸で仕切られ、眼前に田園景色の大パノラマが広がり、店内でくつろぐ客人からは贅沢な借景に感嘆の声が漏れてきます。


土壁を背景に様々な陶芸作品が並ぶ店内。冬には欠かせない薪ストーブも絵になる存在感です。
経歴と道のり、そして忠左衛門

建物を設計したのはオーナーの野島英史氏(49)。宮大工であり古建築専門の建築会社社長であり、この店のシェフです。
代々職人の家系に生まれ、15歳で大工の道に。18歳で単身飛騨高山の宮大工に弟子入りを志願、後に棟梁にまで昇りつめた実力者です。
地元福山市に戻り起業、また専門学校の教壇に立ち後進の育成にも努めていた折、この家屋の元の持ち主から「家と田畑を譲り受けてほしい」との打診が舞い込みます。
時代とともに農村の景色は変わり住人を失う民家も増える一方の昨今です。
それを危惧する互いの想いが共鳴しあって『忠左衛門』オープンの縁につながっています。
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家と田畑を譲り受けたものの、今の『忠左衛門』に仕上げるために3年の歳月を有したといいます。
白紙の未来予想図に修復図面を描くことはできても、活用法が見出せないままに過ぎていく日々。
時間を作っては草刈りに通い、泊まり込んで思案する日も続きました。
この頃、先ばかりを見ようとする姿勢を一旦休め、建物の歴史に思いを巡らせることで知った「忠左衛門」なる人物のエピソードがあります。
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忠左衛門とは、江戸時代の安芸国高田郡土師村(現安芸高田市八千代町)に実在した農民です。
孤軍奮闘、自らの田を手放してまで3年かけ用水路を完成させた英雄です。
用水路はダムの底に沈んでしまいましたが、完成から約300年のちまで人々の生活に役立ってきました。
お上の言いつけに従わないなどと首に枷を与えられたまま過酷な作業を続け、ついには声を失い、地元では「喉声忠左衛門(のどごえちゅうざえもん)」と渾名がついたと伝わります。
偉業を讃える記念碑や神社が八千代町『土師ダムのどごえ公園』内にあります。
懐を借りて
不屈の精神を持つその男の名を店名に決め、経験のない飲食の世界へ。まず自分にできることから、忠左衛門の懐を借りる思いで毎週金曜日「まがりカレー」(1000円)を提供しています。
くしくも宮大工時代、親方、兄弟子らに振る舞う賄いカレーが好評だったことからメニューはカレーと決めました。
じっくり炒めた玉ねぎと自身で選別したスパイスを調合し、野菜と肉で甘みとコクをバランスよく加えたカレーです。
市場や道の駅などの新鮮野菜を使用するため、季節や日によって折々に具材が変わります。




衣食住を大事に考えたスローライフを提唱する野島氏。
近い将来、自分の田畑で収穫した米、野菜を使った料理の提供を計画中。
作陶家との共作アート作品
カレーを頂くための「器選び」。こんな小粋なオプションが『忠左衛門』の特徴です。
陶芸家・山下公敏氏(福山市在住)によるそれらの器は、まるで山野が変現したかのような野趣溢れる力強さがあります。
豪気で正直でおおらかで、感情表現豊かな器といった印象です。
これほど強い個性の器にどうやってカレーを盛り付けるのか? おそらく大概の人が興味を持たれるのではないでしょうか。
そこはぜひ冒険的、挑戦的に器選びを楽しんでいただきたいものです。
なぜなら、「絵を描くように」というシェフの巧みな盛り付けも『忠左衛門』の魅力だからです。
また、店内の陶芸作品は購入も可能です。

主役級に存在感をアピールしていながら料理の美味しさを引き立てる器とそれに呼応するかのように美しく盛り付けられるカレーは、まるで共作のアート作品です。

古い友人と来店された女性客。「カレーといえば器はどこも画一的。ひとつひとつ盛り付けまで変えて提供されることに感激」「ピリッと辛く後味さっぱりのカレー」と感想を聞かせていただきました。
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8月までの期間限定、第2水曜日は『名もなきカレー屋』の営業日
『忠左衛門』をシェアスペースとして、月に一度だけ、もうひとつのカレー屋が営業をしています。
看板のない『名もなきカレー屋』が提供するのは「カルダモン香るスープカレー」です。
厨房に立つのは大野恵子さんと妹の塩崎杏澄さん姉妹。
恵子さんは骨董屋の女将であり、姓名判断の易者であり、料理教室を開催するなど様々な分野で才覚を発揮、一方、杏澄さんはデザイン会社社長のちフリーランスとして店舗の企画、プロデュース、デザイン等の活動を行うクリエイターです。
恵子さんが前菜とデザートを、杏澄さんがカレーを作り、姉妹合作でコース仕立てのカレーランチ(2,000円)を提供しています。
長年通い続けた忘れえぬ「記憶のカレー」
杏澄さんが長年通っていた大好きなカレー屋の味を思い出しながら作ったのが「カルダモン香るスープカレー」です。
ほろほろに煮込まれたチキンの脚が丸ごと1本と大きなじゃがいもの入ったカレーは、ホールのままのカルダモンを使用しているのが特徴で、複雑なスパイスの中にインパクトのある爽やかな風味を加えています。
また、食後の胃をさっぱりさせるなど薬膳の効果もあるそうです。

この日の前菜は、生ハムと枝豆の乗った新玉ねぎの冷製ムース。
初夏にぴったりの小さなステムグラスとそれを引き立てる黒い漆器の受け皿。器づかいにもセンスが光っています。

メインは肉離れの良い骨付きチキンと、じゃがいもがゴロリと入ったとろみの少ないスープカレーです。平らに盛られたライスとボウルに入ったカレーを分けて提供されます。
食べ方は自由。食べる分だけカレーをライスにかけても、はじめから全部かけていただいても、ライスをすくったスプーンをスープに浸して食べてもokです。
副菜は3種。ダイス状にカットしたチーズ、福神漬け、らっきょうが味の変化を楽しませてくれます。

パプリカ、ニンニク、セロリ、きゅうりなど、とりどりの色と形の自家製ピクルスも添えられています。鉢から好きなだけ取り分けていただけます。

デザートはミントをあしらったホワイトチョコのブラマンジェ、いちごのコンフィチュール添え。
スリットをつたって落ちたソースが美味しい表情を完成させています。
繊細な図柄のガラスプレートやスプーンもデザートと三位一体になって互いを引き立て合っています。

田園景色を眺めながら食事を楽しむご夫婦。「噛むほどに口のなかに旨み、辛さ、爽やかさなど味に変化が起こるのがおもしろい」と満足顔。
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基本情報

◎free space忠左衛門
住所:広島県安芸高田市吉田町多治比1872-3
営業時間:金曜のみ/11:00-16:00/要予約
Tel:080-9797-7906
席数:22席
駐車場:8台
駐輪場:10台
アクセス:中国自動車道千代田ICから車で20分、高田ICから車で15分
忠左衛門HP:https://chuzaemon.jp/
インスタグラム:https://www.instagram.com/chuzaemon_h/
のじま家大工店HP:https://nojimaya.co.jp/
◎map
◎名もなきカレー屋(’25.8月までの営業予定。9月以降は未定)
営業時間:毎月第2水曜/11:00-12:30,13:00-14:30/要予約
予約電話:080-2938-6902
◎土師ダムのどごえ公園
住所:広島県安芸高田市八千代町土師
Tel:0826-52-2841(土師ダムサイクリングターミナル)
Tel:0826-52-2811(はじ丸館)
駐車場:あり(無料。桜開花中の土日のみ協力金として車1台500円)
アクセス:中国自動車道千代田ICから約10分、国道54号線勝田三叉路から県道5号へ約5km
◎map