天竜浜名湖鉄道・気賀駅から北へ直線距離にして約350メートル。
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」は、奥浜名湖エリアの民俗資料と歴史資料を展示している2階建ての小さな資料館です。
館内に展示されているのは本物の銅鐸や姫街道に関係する歴史資料のほか、実際に漁で使用していた和船や昭和40年代まで行われていた藺草(いぐさ)栽培と畳表生産時に使用していた機械や道具など。
本記事では小さいながら見応えたっぷりの資料館1階部分をご紹介します。
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」とは?

白く角ばった形をしている「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」は、細江公園南側の坂の途中に位置する小ぢんまりとした資料館です。
建物の向かって右側には、明治時代の初め頃まで産屋として使用していた「旧山瀬家のコヤ(産屋)」が移築されていました。

産屋とは女性が出産までの一定期間を家族と離れて生活する場のこと。
中へは入れませんが、産屋の大きさや板戸、茅葺屋根、土壁などの様子から当時の雰囲気の一部を感じ取ることができるでしょう。

資料館は2階建て。
1階展示室では奥浜名湖エリアの民俗資料を、2階展示室では近隣地域から出土した銅鐸や、姫街道などに関する歴史資料を鑑賞できます。
1階展示室内の中央には、昭和30年ごろまで奥浜名湖(引佐細江湖)で行われていた囲目網(かくめあみ)漁で使用していた和船がどど~んと。
そして展示室内の壁に沿って、藺草栽培と畳表生産に関した道具類がぐるりと並んでいました。
囲目網漁は大地震の恩恵!?


和船の中で見られるのは、実際に使用していた囲目網漁用簀子や囲目網、漁で使用された籠のほか、肥料用の海藻を採るこまざらえなど。
囲目網漁用簀子はボラの飛び跳ねる習性を利用した漁具で、私は館内スタッフの小桐さんに使い方を教えていただくまで知りませんでした。


囲目網漁とは、2艘の大網(たいまい)船と2艘の簀子(すのこ)船を1組とし、2~3組で一隊となって漁をする漁法のこと。
ボラの群れがいる場所を目標として各組の大網船2艘が囲目網(全長400メートル、深さ12メートル)を打ち、文字通りボラの群れを囲って追い込み、簀子船と協力しながらすくい獲る全国的にも珍しい漁法でした。
今でこそ浜名湖は汽水湖ですが、室町時代後期に明応地震が起こるまでは淡水湖だったんですよね。
それが地震によって海とつながり、汽水域に生息する魚が入り込むようになり、江戸時代から囲目網漁がおこなわれるようになったのです。
藺草栽培と畳表生産関連品は壁沿いに展示

壁沿いに展示されている藺草栽培と畳表生産時に使用していた機械や道具は、カイソヨリキから。
といっても何のことか分かりませんよね。
カイソとは細い繊維状にしたイチビ(黄麻)のことで、ビンゴイ(備後藺)やリュウキュウイ(琉球藺 / シチトウイ・七島藺)を織る時に使う経糸(たていと / 縦糸)に使用していました。
このカイソを縒り合わせる機械がカイソヨリキです。

カイソヨリキの隣には畳表織機が。
これは2人がかりで作業を行う旧式のもの。畳表を1枚織るだけでも大変そうです。

その隣には莚(むしろ)を織り上げるミシロ織機があり、数段だけですが莚が織り上がっている箇所がありました。
昔話等に登場する機織り機とミシロ織機を比べると、ミシロ織機の方が荒々しく見え、織りに使う素材の違いが感じられませんか?

展示品の中には大きなところてん突き器のようなものも。
「これは用水路の水をリュウキュウ田に掻い出す時に使った道具で『スッポン』と言うんですよ」と、小桐さんが身振り手振りを交えて使い方を教えてくださいました。
収穫したリュウキュウイは下処理が重要!

ビンゴイとリュウキュウイの違いは大きく云うと使用する植物がイグサ(藺草)かどうか。
前者はイネ目イグサ科イグサ属のイグサのことで、後者のリュウキュウイはイネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属なんです。
茎の断面も異なり、丸いイグサに対してリュウキュウイは三角形。
浜名湖沿岸地域では三ヶ日町でビンゴイを、細江町と引佐町ではリュウキュウイを使って畳表やゴザなどを織っていたのです。
ただ刈り取ったリュウキュウイはそのままの状態ではなく、断面を2つに裂いて乾燥させる必要があったことから、古くはユミを使って分割していたそう。
「イグサ(リュウキュウイのこと)は分割するのが大変で。子どもの頃に足踏み分割機を使ってリュウキュウイを裂く手伝いをしていたんだよ」と小桐さん。

織り仕事は農閑期や夜間、雨天時における女性の仕事でしたが、織る前段階のリュウキュウイ分割は子どもでも手伝える仕事だったようです。

経糸となるイチビと緯糸となるリュウキュウイが用意できたら畳表織機で織り上げます。
上の画像は展示室内右側奥にある静岡製莚機製造株式会社(現・静岡製機株式会社)製の足踏み式畳表織機です。
入口近くのカイソヨリキの隣にあった畳表織機よりも、ずいぶんと織機っぽいですよね。
「イグサは株元と先端とで太さや厚さが違うから、同じ向きで差し込んだまま織ると形が崩れるんだよね。
そこでこの機械に差し込む時は、同じ向きにしたイグサをココとココへ交互に差し込むとイグサが反転してね、上手いことイグサの左右が互い違いに並ぶわけ。
そうすると織り上げた時に形が崩れないんだよ」
「たしか左側(上の画像・緑色の矢印部分)のは差し込んだか下のフックに引っ掛けたんだけど、母親が織る姿を見ていただけだったからよく覚えてないんだよね」
と、畳表織機左側についている三角形っぽい部品を指して小桐さん。
小桐さんによると細江地区での畳表製造は昭和40年代まで続いていたそうです。
織り上がった畳表は…

ところで「どうして細江地区でリュウキュウイ生産をするようになったの?」と思う方もいますよね。
それは江戸時代中期の宝永4(1707)年に起きた大地震により、浜名湖岸の水田が甚大な津波被害を受け、水田に塩分が残ってしまったことから始まります。
当時の領主は旗本の近藤用随(もちゆき)。
彼が豊後国(現在の大分県に相当)の領主松平市正(いちのかみ)から塩に強い作物であるリュウキュウイの存在を教えてもらい、いただいたリュウキュウイの苗を塩の被害に遭った水田へ植えたのがきっかけとなったのです。
その後、農閑期である冬季の副業となりました。

織り上がった畳表やゴザはセリに掛けられ、仲買人たちに買われました。
セリでは仲買人たちが銅でできた小皿の内側にそれぞれ買いたい値段を書き、競り(セリ)人となった地区の役員がチェックして値段を決めたのです。
小桐さんが子ども時代の細江町では、稲作とリュウキュウイ栽培とを兼業している農家が多かったとのこと。
現金収入になる畳表やゴザはとても重宝したそうです。
今まであちこちの道の駅や資料館などで稲作栽培用の農工具は見ましたが、藺草栽培用の農工具を見るのは初めて。
見るもの聞くもの、すべてが新鮮に思えました。

このほかにも、1階部分ではまだまだ多くの民俗資料を鑑賞可能です。
展示品について興味のある方は、館内のスタッフさんへガイドをお願いすると詳しい話を聞けるので、ぜひどうぞ。
建物正面には、本来はすでに枯れているリュウキュウイの鉢植えが。
季節によってはリュウキュウイの鉢植えを見ることができないかもしれませんが、機会があればご覧くださいね。
<基本情報(施設情報)>
所在地:浜松市浜名区細江町気賀1015-1
電話番号:053-523-1456
業務時間:午前9時~午後5時
休館日:月曜日、祝日の翌日、年始・年末(12月29日~翌年の1月3日)※臨時開館・休館等により、休館日が変更される場合があります。
観覧料:無料
駐車場:あり(無料)
姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館の公式サイト(外部リンク)
2026年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。




