千葉県長南町の「八兵衛珈琲焙煎工房」は、古市喜章さんが実家の商店の半分を使って始めたコーヒー焙煎のお店です。ご近所だけでなく県外からも多くのお客さまが訪れます。
お店の根っこにあるのは、四国のお遍路で出会った「お接待」の心。お接待とは、遍路道沿いの人々が歩く人に食べ物や飲み物をふるまったり、休む場所を提供したりする、四国に根づく風習です。
旅で受け取った「見返りを求めない優しさ」を、今度は自分が誰かに手渡したい。その思いがコーヒーと結びついたきっかけと、生まれ育った町の見え方が変わっていった道のりを伺いました。
「いつか」を待たず、お遍路へ

四国のお遍路には以前から憧れ、定年を迎えたら行こうと考えていました。その考えが変わったのは、病気がきっかけでした。当たり前の毎日は、決して当たり前ではない。一分一秒先のことさえ誰にもわからないと実感し「いつか」ではなく「今」やろうと、四国へ向かいました。
宗派のことも知らず、般若心経も読めません。それでも歩き始めた道の先で待っていたのは、想像もしていなかった人々の優しさでした。
「受けてくれてありがとう」と言われた、お接待の驚き
歩いていると、沿道に暮らす人たちが「お茶を飲んでいきなさい」「ご飯を食べていきなさい」と声をかけてくれます。
驚いたのは、そうした人たちのほうから「お接待を受けてくれてありがとう」と感謝されたことでした。見ず知らずの人に、なぜそこまでできるのだろう。自分に置き換えて考えるほど、その風習に心を動かされました。

雨の海岸線で気づいた、幸せのかたち
旅では、風や暑さ、寒さを肌で感じ、五感がフルに働きます。
特に印象に残っているのは、強い風雨の中を進んだ海岸線です。靴はぐしゃぐしゃになり、雨具を着ていても濡れてしまう。前にも後ろにも誰もいない中で、不思議と「いまこの瞬間を体験できている自分は、なんて幸せなんだろう」と思えたのです。
以前は、高級車に乗ったり、お金を使って遊んだりすることが幸せだと考えていました。けれど、五感いっぱいに味わった幸せは、お金で得られるものとはまったく違っていました。
沿道でお接待をする人たちも、相手が喜ぶ姿を見て自分の喜びにしている。それらの体験を重ねるうちに、私の中の「幸せの基準」が少しずつ変わっていったように思います。
自分や家族の健康を祈って始めた旅は、最後には「世界が平和であればいい」という願いへと広がっていました。
お接待の心を、好きなコーヒーで表現したい

四国で受けたお接待を、自分もしてみたい。その方法に選んだのが、もともと好きだったコーヒーです。仕事帰りに焙煎したての豆が買えるお店に通っていたこともあり、コーヒーで人を迎えるのもいいのではないかと考えました。
ところが、実家の商店の一部を使って焙煎所を始めたいと伝えると、母は大反対。山と田んぼばかりのこの場所では、誰も来ないと言われました。以前の自分なら諦めていたかもしれません。それでもこのときは、誰も来なくてもいいからここでやろうと思えたのです。
半分無理やり始めた工房ですが、訪れる方々との会話を楽しんでいるうちに、気づけば驚くほど多くの方が足を運んでくれるお店になりました。
生まれ育った長南町を「好きだ」と言える自分に

町外の職場へ通っていたころは、地元にあまり目を向けていませんでした。移住してきた人が長南町の良さを語っても、どちらかといえば否定的に受け止めていました。
その見方を変えたのも、お遍路です。
旅の途中、一緒に歩いたフランス人が「各地の巡礼を経験したけれど、四国のお遍路は素晴らしい」と話してくれました。
遠くから来た人が感じた良さを、近くにいる自分が否定する必要はない。そう思えたとき、長南町についても同じだと気づきました。今では、生まれ育った町が昔よりも好きだと心から言えます。
出会いに感謝し、人と過ごす時間を大切にしたい

今、たまらなく尊いと感じているのは、店に来てくれる人たちと他愛もない話をしている時間です。
お接待として、お代をいただかずにコーヒーをお出しすると戸惑う方もいます。私も四国で見ず知らずの人から食事や宿泊に誘われたとき、すぐには素直に受け取れなかったので、その気持ちがよくわかります。だからここでは、相手の気持ちやタイミングも受け止めながら、できる範囲でお接待を続けているのです。
病気になったときは、もうどうでもいいと思った時期もありました。でも今は、病気に感謝しています。それがなければ、お遍路も工房も、今つながっている人たちとの出会いもなかったかもしれません。実家で工房を営み、母と過ごす時間も増えました。
お遍路では、時間がずれていたら一生会わなかったような人に出会います。その経験から、すべては偶然ではなく必然だと思うようになりました。
2026年11月で「八兵衛珈琲焙煎工房」は、開店8周年を迎え9年目に入りました。これからもお接待の心を根っこに、お店に来てくれる人との時間を大切にしていきたいと思っています。
八兵衛珈琲焙煎工房
住所: 千葉県長生郡長南町山内973-1
電話: 0475-46-1500
営業時間: 10:00〜18:00
営業日: 金・土・日・祝日を基本に営業。
※最新の情報は 八兵衛珈琲焙煎工房(Facebook)をご確認ください。



