天竜浜名湖鉄道・気賀駅周辺には、徳川家康の堀川城攻めにまつわる史跡や気賀関所の建物の一部など、江戸時代に東海道の脇往還だった本坂道の気賀宿として栄えた頃の史跡等が点在しています。
所要時間は撮影しながらゆっくりペースで見て回っても1時間15分間ほど(途中の休憩時間は除く)。
散歩気分で手軽に史跡めぐりが楽しめます。
天竜浜名湖鉄道・気賀駅からスタート

史跡めぐり散歩は天竜浜名湖鉄道・気賀駅北口からスタートします。
駅舎の壁や駅舎外の駅名看板に赤い色が使われているのは、この地からほど近い場所にある井伊谷周辺を「井伊の赤備え」で知られる井伊氏が治めていたから。
江戸時代には井伊氏とゆかりのある、気賀近藤氏が領主となって治めていました。

対象となる史跡は気賀駅から北側周辺に点在していることから、まずは100メートルほど先にある堀川を目指します。

堀川はかつて気賀関所の要害堀(関所警備の目的で設けられた堀)として利用され、現在でもその流れを見ることが。
堀を流れる水は北方面に広がる小高い丘から流れ込み、浜名湖の支湖のひとつ・引佐細江湖(奥浜名湖とも)に注いでいます。
▼観光施設の気賀関所について書きました

護岸された水路の流れは早くもなくゆっくりでもなく。
ほぼ真っすぐ東へ250メートルほど歩くと、地元の古社・細江神社とゆかりの深い赤池様公園に到着します。
赤池様公園からも堀川へ向かって水が流れ込んでいました。
気賀関所の屋根~気賀近藤陣屋遺木江戸椎

気賀四ツ角交差点は赤池様公園から東へさらに100メートルほど。
堀川沿いの道は交差点内を南北に走る主要道路の脇から合流しており、この交差点を左折して国道362号線に沿って歩きます。

「気賀関所本番所跡」は気賀四ツ角交差点のすぐ近くに。
気賀は戦国時代末期、徳川家康の家臣・本多作左衛門により、東海道の脇往還・本坂街道(姫街道)の宿場町として定められました。宿場の北側の山手に土塁が、南には要害堀として堀川が設けられました。さらに宿場の東端には関所と葦垣を、西端には石垣と矢来、そして桝形(ますがた)を設置。
桝形とはその名の通り桝のように四角形をした広場で、戦国時代には城の防御および攻撃のために門を入るとすぐの場所に設置されていました。
宿場町の桝形は外敵が進入しにくいよう街道を直角に2回折り曲げたもので、現在でも中津川(岐阜県)や二川(愛知県豊橋市)などに残っています。

気賀関所の建物で現存しているのは本番所の一部分のみ。
国道362号線側からだと妻入り部分が上手く見えないため、見学したい方は脇の小路を入りましょう。
「史跡気賀関址」の石碑横にある案内板によると
関所の本番所は、はじめ茅葺(かやぶき)でしたが、寛政元年(一七八九)に杮葺(こけらぶき)・切妻破風(きりづまはふ)造り、狐格子(きつねごうし)・瓦棟に改築されました。(中略)屋根の切妻破風造り、狐格子が残されています。
とありました。
狐格子は格子を縦横に組んだもので妻格子とも呼ばれ、社寺や城郭等の妻飾りに用いられています。
見学できる場所はそれほど広くありませんが、間近でご覧になりたい方はぜひどうぞ。

気賀関所跡から、気賀近藤家の陣屋(屋敷)跡地に残る椎の大木(気賀近藤陣屋遺木江戸椎)までは160メートルほど。
椎の大木は陣屋跡地に植えられていたものとされていることから「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」と呼ばれ、国道362号線から坂道を上ると左側に植えられています。
上の画像、右側奥に見える建物は浜松市立気賀小学校で、気賀小学校を含むこの周辺一帯は江戸時代には近藤家の陣屋でした。

現在、当時の面影を残すものはこの椎の木だけですが、大きく張り出した枝の先には生き生きとして葉がついていて、樹勢は衰えていない様子。
少し高台に位置しているこの場所から植えられて以来、現在までずっと連綿と続く人々の営みを見守ってた来た江戸椎を間近で見上げてみませんか?
気賀宿本陣跡~本陣跡公園~気賀宿の桝形と燈籠

国道362号線に戻りさらに西へ進むと、NTTの建物脇には「気賀宿本陣中村家跡」の案内板が。
本陣とは宿場において街道を行き交う大名や公家などが、公用の旅で宿泊や休憩をする宿舎のこと。一般の旅人は利用を禁止されていました。
中村家が務めていた気賀宿の本陣は、8代将軍徳川吉宗の生母・浄円院が宿泊したり、五摂家筆頭の近衛家息女が休憩したり。
この案内板からは容易に想像できませんが、利用者の属性はなかなかに華やかだったようです。

NTTの斜め前には武家屋敷跡を利用した「本陣前公園」があります。

公園内はうなぎの寝床のように奥行きがあり、四阿(あずまや / 庭園などに設置される簡素な休憩施設)が設置されているので、史跡めぐり散歩をしていて疲れた時にはこちらでひと休み可能。チェックしておくと安心できる場所です。
その他、遊具や芝生広場、トイレがあります。

本陣前公園看板の裏側に描かれた「幕末の本陣界隈絵図」は必見ですよ。

本陣前公園から「気賀宿の桝形と燈籠」へは西へ約190メートル。
前述したように桝形とは敵が宿場へ進入しにくいよう、宿場の出入り口にそれぞれ設けられた広場です。
案内板には
この桝形は気賀宿の西入口にあたり、一対のL字形の石垣の上に土を盛り矢来を組み、門が設けられていた。
とありました。
向かい側のL字形をした石垣は道路拡張工事の際に取り去られてしまったため、残されたのはこちら側だけ。
石組みの中には瓢箪の形をした石がはまっているので、興味のある方はぜひ探してみて!

桝形の西端には石造りの燈籠(とうろう)も。
こちらの燈籠は秋葉の常夜燈で、当地の安全を火伏せ(火防)の神様をお祀りしている秋葉山に願った地元の若者たちが願主となって幕末に建てられたものです。
江戸時代には気賀宿のある本坂街道(姫街道)を通って秋葉山参詣する方が多かったそう。
この燈籠を参詣に向かう時には目印にし、参詣後に見て秋葉山の思い出を反芻した旅人がいたかもしれませんね。
獄門畷(ごくもんなわて)~堀川沿いを歩いて気賀駅へ戻る
この史跡めぐり散歩の中で一番古い歴史を持つ「獄門畷(ごくもんなわて)」は、気賀宿の桝形と燈籠から西へ約65メートル先に。

畷とは、細く伸びた田んぼ道やあぜ道のこと。
のどかな印象を持つ言葉ですが、獄門畷は決してのどかな場所ではありません。
というのは、戦国時代に引佐細江湖の北岸にあり、徳川家康軍の攻撃を受けた堀川城の落城に関係しているから。
家康軍が攻めた堀川城には、地元の農民や雑兵(ぞうひょう / 身分の低い兵士)たち約2,000人が立て籠もっていました。 多くの犠牲者が出たほか、落城後にも捕らえた約700人の人々の首を打ち刎ねました。さらに打った首を、この場所の近くを流れている小川沿いの土手に晒したのです。
「堀川城将士最期之地」と書かれた石碑の前には、小さな五輪塔と香の花(樒 / しきみ)。
普段、自動車で通り過ぎる際にチラリと見るだけの筆者は、改めてこの石碑の前でそっと手を合わせました。
獄門畷の脇から南へは細い水路と小道が延びていますが、もしかしたらこの小道が首を晒した土手跡なのかもしれませんね。

今回の史跡めぐり散歩での史跡は獄門畷まで。
ここから気賀駅へは、前述した細い水路沿いの小道を通るのが近いです。

小道の突き当りに流れているのは堀川です。
気賀駅から出発したばかりの頃に見た堀川は川幅が狭く、気賀関所の要害堀に思えなかった方もいますよね。
けれど、この堀川の様子を見れば「かつての堀川は気賀関所の要害堀だった」と聞いても納得すると思います。
江戸時代にはもっと川幅が広くもっと深かったんだろうなあ、と想像しながら歩くのも楽しいですよ。

堀川の向こう側に細江郵便局を眺めながら真っすぐ歩くこと約300メートル。
片側1車線の道路との交差点を右折すれば、正面に気賀駅周辺の史跡めぐり散歩のスタート地点だった天竜浜名湖鉄道・気賀駅が見えます。
普段、車で通り過ぎてしまう史跡や、道路から奥まった場所にある史跡を実際に見て回れるのは史跡めぐり散歩ならでは。
戦国時代にこの地を襲った凄惨な歴史や、その後の気賀宿の発展ぶりなどを今に伝える史跡たちです。
<参考リンク>
・気賀関所(外部リンク)
・アーツカウンシルしずおか(しずおか文化資源データベース)(外部リンク)
2026年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。



