
京急鶴見駅から歩いてすぐ、古くからの繁華街に佇む創業51年の老舗喫茶店「珈琲専門店山百合」。扉を開けると「いらっしゃいませ」と微笑むのは若い女性マスター。その人がこの店の閉店の危機を救った「慶野未来(けいのみく)」さん。
ひょんな事から縁もゆかりもない鶴見の老舗喫茶店のマスターになった慶野さんに、老舗喫茶店継業の苦労から、新しいチャレンジ、危機的な状況にある街の喫茶店について伺いました。

元小学校の女性教員が老舗喫茶店のマスターに
京急鶴見駅を降りて、商店街から一歩裏手の路地に入ると居酒屋やスナックが点在し、今も昭和の香り漂う小路があります。ここはかつて「三業地」と呼ばれ花街として栄えたエリア。
その一角に、古くからこの街の人たちの憩いの場として親しまれている「珈琲専門店山百合」(以下山百合)があります。
店名の“山百合”の由来は定かではありませんが、先代が花屋を営んでいたからとか、神奈川県の県花が山百合だからなど諸説あるようです。
創業は1975年というから、約半世紀この地で営業してきた老舗喫茶店です。

「珈琲専門店」としてのこだわりはオリジナルの珈琲豆をサイフォン式で淹れる「山百合コーヒー」。この珈琲を求めて来る常連さんは今も後を絶ちません。
そんな「山百合」には2021年、閉店の危機がありました。コロナ禍で店は休業を余儀なくされたうえ、先代マスターは高齢で後を継ぐ人も見つからない。
そんな時に救世主が現れます。当時25歳、元小学校教員の「慶野未来(けいのみく)」さん。
慶野さんは当時、教員を一旦辞めて英語の勉強をするために留学を考えていましたが、コロナ禍で止まってしまっていたところに、知り合いから「後継者を探している店があって、古い喫茶店なんだけど確か喫茶店好きだったよね」という事で急に先代マスターに会うことになり、そのお店が「山百合」でした。

知識も経験もないので会って断ろうと思っていましたが、店内を見て「いい店だな」と思った事、先代の思いや心残りな気持ちなどを伺っているうちに、「やってみたいな」という気持ちに傾き、あれよあれよと引き継ぐことが決まりました。慶野さん曰く「そういうのに弱いんです(笑)」と。
未経験でも誰にも負けない「喫茶店愛」

引き継ぐことが決まってから、オープンまでは3ヶ月しかありませんでした。
料理も未経験で、しかもレシピもない。先代は見て覚えてというタイプで、特訓が始まりました。
誰もが「できるわけない」と言いましたが、本人曰く性格は「頑固」で「あまのじゃく」。そう言われると逆に「やってやる」という気持ちが高まりました。
そしてその原動力はなんといっても、誰にも負けない「喫茶店愛」。好きだからこそ、困難も乗り越えられたようです。

「喫茶店」に焦がれるようになったのは高校生の頃。「東京喫茶店研究所二代目所長」の難波里奈さんの著書「純喫茶コレクション」に出会い、紹介されている名店といわれる喫茶店に通ううちに喫茶店の虜になってしまいました。
時が経ち自分が喫茶店のオーナーになることになり、思い切って難波さんのSNSにメッセージを送ったら返信をいただけて、何度かやり取りをした後、あるイベントで本人に会うことができました。そのイベントでは憧れの名店のマスターたちにも会えてお話が伺えた事も支えになりました。

そして2024年4月、続けて来てよかった、という嬉しいことがあったそうです。
なんと、難波さんの最新刊「純喫茶ランチ」に「山百合」が掲載されたのです。
難波さんがきっかけで好きになった喫茶店。その喫茶店のマスターに自分がなって、難波さんに来ていただいて、本に掲載してくれる。「山百合」との出会いが引き寄せてくれた奇跡と言えそうです。
守るものは守りつつ、進化するメニュー


先代から引き継ぐ時に要望として言われたのは、内装はそのままで、現状のメニューは出して欲しい。珈琲は取引している豆屋さんの「山百合ブレンド」を使いサイフォンで淹れるという事。それ以外は新しいメニューを入れてもいいという事でした。
同じ材料を使いつつ進化させたのは「ナポリタン」。交流がある名喫茶店のマスター達に指南を仰いだところ、ナポリタンの美味さの秘訣は「火入れ」だと。

それから試行錯誤、たどり着いたのが今の味。以前のナポリタンはソースに汁気があったのですが、今のものはよく炒め、汁気を飛ばし凝縮した旨みが麺に絡まる濃厚な味。山百合は2022年、は「日本ナポリタン学会」の認定店舗となりました。
お客様からの要望もあり、日替わりランチではこだわりの「スパイスカレー」や「ハヤシライス」、「タコライス」などのメニューも加わり、手際よく鍋を振る姿は頼もしいマスターの姿。

デザートメニューも進化した部分です。以前は「コーヒーゼリー」しかありませんでしたが、「プリン」や「ブラウニー」「ティラミス」など珈琲のお供にぴったりのデザートを増やしました。
なかでも「ティラミス」はおすすめの逸品。王道のマスカルポーネは使わずクリームチーズを使い、マフィンに山百合ブレンドを染み込ませたオリジナルレシピ。濃厚でありながら酸味の爽やかさがあり、サイフォンで淹れたまろやかな「山百合コーヒー」とピッタリ。

今、「山百合」は昔ながらの常連客に加え、レトロ喫茶店ブームや名物のナポリタンを求め、若い新しいお客さんが訪れる人気店になりました。
昔ながらの「喫茶店」の危機
今、昭和レトロブームなどと言われ、昔ながらの喫茶店が若い人たちに人気になっています。一方、街に根差した昔ながらの喫茶店は老朽化や後継者がなかなか見つからない事などから閉店が相次いでいます。
喫茶店好きの慶野さんからしたらとても悲しいことです。後継者探しがなかなか難しいことは確かですが、もし継業したいけど、どうしていいか分からないという人がいたら自分のノウハウを提供したい、という思いもあるようです。

「こんな、何も知らなかった私でもできている」、何も分からなくても一所懸命頑張ればできるというのが信条。
そして、「山百合」をこの先もずっと続けていく。それが「喫茶店文化」の継承に繋がる。慶野さんの思いは揺るぎないのです。
街の憩いの場の「喫茶店」が、街へ繋がる「喫茶店」に
鶴見の老舗喫茶店のマスターになって5年、鶴見の印象を伺うと、「一言で言うと多文化共生の街かな」と、沖縄や南米の方やそれ以外の国の方も沢山いて、それで新しい文化ができていく街。「古いものも尊重し、新しいものも受け入れていく柔軟な街で大好きになりました」。
そんな鶴見の街の憩いの場である「山百合」は閉店の危機を乗り越え、新マスターの元で5年、古くも新しい「山百合」としてすっかり街に受け入れられているように感じました。

そして今後の展望を聞くと、「地域に貢献する喫茶店になりたい」と。「私もそうなんですが、喫茶店好きの人は好きな喫茶店目指して知らない土地に行くんです」。だから、「山百合」の魅力をもっと発信して、鶴見に来たことがない人にも来てもらい、他の店にも立ち寄って時間を過ごしてもらいたいと仰います。
慶野さんは喫茶店文化の“未来”を繋ぐ存在でありながら、「山百合」を鶴見の街の憩いの場の喫茶店から、街の“未来”へ繋ぐ喫茶店へと進化させようとしているのでした。
お店の情報
珈琲専門店山百合
アクセス:京急鶴見駅から3分ほど
電話:045-521-0560
営業時間:平日11:00~19:00 土日祝12:00~19:00(L.O. 閉店30分前)
定休日:不定休(基本月曜日)


